集合玄関crisis
ハ、と。その蒼眼を開いた跡部は、焦点の合わないまま数回瞬き、ゆっくりと眉を寄せた。
首筋には汗の玉が浮かび、前髪は額に張り付いている。
暑い。暑過ぎる。
初夏を迎えた部屋はもわりとした熱を孕みながら、寝起きの跡部を容赦なく包んでいた。
そのまま首を動かし、横を向けば。ぐちゃりと握り潰してそのまま放置した様な。それくらいぐちゃぐちゃになった後頭部が目の前に。
つむじ付近が不自然に分かれた激し過ぎる寝癖に、同じくらい激しいその男の寝相を思う。
―――よく隣で眠れるモンだ。
自分に関心しながら……それが慣れから来るものだという事は分かっているが……体を起こした。
完全に上に乗っかられる事などごく普通、何度かフローリングに蹴り落とされて、腰を強打した事もある。それ以来、壁際には絶対に俺が寝る、との約束を
取り付けさせていた。
朝起きたら目の前にあったのが足だった事も何度だってある。それくらい、この男……未だ眠る越前リョーマの寝相は悪い。
しかも、跡部が仰向けで眠るのに対し、リョーマはうつ伏せで眠るのが好きだ。そのせいで、強力ラリアットを食らった夜も多々ある。
それでも一緒に眠る理由……単に部屋の広さからベッドが一つしか置けないからか、それとも何かしらの甘い意味を含んでいるのか。半々か。
体を起こした跡部は、滑り落ちたタオルケットを見て、自分が何故これほどまでに汗をかいていたのかを知った。
自分の分と、リョーマの分。二枚のタオルケットが、一緒くたになっていたのだ。恐らくは、眠る内に暑くなったリョーマが蹴飛ばした物が、跡部の上に被さったのだろう。
重い溜息を吐きながらベッドから降りた跡部は、ぐいと一つ伸びをして、カーテンを僅かに開いた。
抜ける様な青空の広がる、いい天気だ。これは何が何でもリョーマを叩き起こし、布団を干し、汗を存分に吸ったタオルケットの洗濯を強行しなければならない。
そんな主婦染みた思考…所謂“洗濯日和”に表情を和らげながら、勿論それには気付かずに、さてどうやってこの寝汚い事この上ない男を起こそうか、と。
殴っても蹴っても……勿論これは比喩だが……全く目を覚まさないリョーマを、それこそ無理矢理起こした場合、その機嫌の悪さと寝相の悪さは、どちらが上だろうか。
今日は互いに休講が重なり休日。なるべく平穏に過ごしたい。
そんな事をぐるぐると考えていると、ふと視線の端で、点滅するものを見つけた。
携帯が知らせる、未読メールのランプ。眠っている間に受信したのだろう、催促する様にピカピカと点滅し続けている。
充電コードを引っこ抜き、携帯を掴んで。
はた、と。
日付の横、「wed」の文字。
am8:20。
次の瞬間。跡部は、メゾネットの階段を駆け下りていた。
二段飛ばしで降りた先、狭い玄関には、大判透明ビニール袋。
最近買ったバニスターに踵を押し込み損ねて潰してしまうも、そんな事に構っている余裕はない。
鍵とチェーンを毟り取る様にして外し、脱兎の如く飛び出した。
ゴウン、ゴウン、ゴウン……。
独特の音と臭いを散布しつつ、それでも市民の生活をしかと支えるゴミ収集車が遠ざかって行く。
それを見送りながら、はぁ、と。跡部は大きく溜息を吐いた。
通常ゴミ出し時間はam8:00までとされている。故に、本日水曜日が燃焼ゴミの日だと気付いた瞬間がam8:20だった時点で、普通なら諦める所だろう。
しかし跡部は違った。と言うか、諦めたくなかった。
次の燃焼ゴミ日である土曜日まで生ゴミを発酵させておく事など、彼には到底考えられなかったのだ。
だからこそ跡部は走った。たとえ住まいのメゾネットマンション前、ゴミ置き場にて、すでにゴミが収集された後だとしても。
音は聞こえる。この方角はどっちだ。そちらにある住居は!?
こうして彼は、自宅から走って数分、別のアパート前で収集作業を行っているゴミ収集車に追いつく事が出来たのだった。
何故寝過ごしてしまったのか。
リョーマとは真逆に寝起きの非常に良い跡部にとって、このミスは有り得ない事であったはずだった。
考えられるのは、昨晩の事。テレビゲームに勤しむリョーマに付き合って、という訳でもないのだが何となく、夜半頃まで読書をしてしまって。
ふと視線を上げるとコントローラーを持ったままフラフラと頭を揺らしているリョーマを発見し。起きる様に促しつつも電気・ガス栓チェック、半ば支える様にして
二階へと押し上げ、ベッドに放り込もうとしたその時に、腕を取られて同時に倒れこんでしまったのが、いけなかったのだ。
見事にリョーマの体の上へとダイブしてしまい、慌てて体を起こしかけた時。バチっと合った視線に、してやられた、と。
既に遅かった時間の攻防の果て、結局就寝が深夜と言うよりは明け方近くになってしまったのは、最早ご愛嬌だ。
ふと自身を見下ろすと、部屋着兼寝間着のよれたTシャツ、グレイのスウェット。寝乱れた髪に、しかし足元だけは革靴。
確認したまま持って来ていた携帯をポケットに放り込んで、次第に早くなる足。
やや神経質な面のあるこの男にとって、部屋着で外に出るなどという事は、基本あってはならない事態なのだ。
思い起こせば、いつもいつも。どう考えても振り回され気味の自分だ。
自宅へと戻る道すがら、寝起き早々に走った事による眩暈や、流れて来る汗や、潰してしまった踵を履き直したものの、くっきりと筋の入った靴にイライラ。
何故こうなる!と年下の恋人に苛立ちを募らせるものの、結局は彼を甘やかす事が自分にとって一種のステータス化している事にも、気付いているのだから性質が悪い。
きっと未だに深い眠りの中に居るリョーマには、知られたくはない…知っていそうな気もするけれど。
そうこうしている内に辿り着いた自宅マンションのエントランスを目の前にして、はた、と。跡部は足を止めた。
物騒な世の中が指摘される様になった後に建てられた多くの住居がそうである様に、このメゾネットマンションもまた、オートロック設備をとっている。
集合玄関に全住人共通の鍵を差し込む事で漸く開くガラス戸が、跡部の前に立ちふさがっていた。
そして。自分がその鍵を持っていない事に気付いたのだった。
やってしまった、と。今更後悔しても、それこそ今更で。
無駄だと十二分以上に分かった上でモニターに向かい、自宅の部屋番号を押した後にインターフォンを鳴らすけれど、スピーカーはうんともすんとも言わない。と言うか、
言うはずがないのだ。リョーマが、こんな音で起きるはずはないのだから。
続いて、唯一持って出ていた(そしてこの時ばかりはその存在に感謝した)携帯から、リョーマの携帯へコールする、が。
鳴らせども鳴らせども。リョーマが応答する気配はない。
留守番センターの応対音声五回目で諦めて、先程感謝したばかりの携帯へと舌打ち。
さて、どうする、と。
血の気の引くのを感じながら、どうする事も出来ずに佇むが。
同じマンションの住人が出て来るのを待ち、集合玄関が開いている隙に滑り込むか。しかし、この格好をご近所さんに見られるのは自尊心に反する。
ならば適当な部屋の住人にインターフォン越しに頼み、集合玄関を開けて貰うか。いや、「鍵を持って出るのを忘れた」はあまりに間抜けで、「鍵を失くした」は防犯上の
意味でも無用心過ぎる。信用を損なう。
幸いにも、と言うか何と言うか。オートロックなのは集合玄関のみで、自宅の鍵は、自分が飛び出して来た時のままだから開いているのだ。
要は、このガラス戸をどうやって突破するか、なのだが。
考えに考えた末、跡部は苦渋の決断を下した。
自宅の隣室の部屋番号を押し、インターフォンを鳴らす。
―――『すみません、隣の部屋の跡部ですが、鍵を部屋に置いてきてしまいまして。開けて頂けませんでしょうか』
持って出るのを忘れた、という言葉を別表現に直す事で漸く決心のついた自身を慰めつつも、発する予定の言葉を反芻しつつ、応答を待つ。
……が。
スピーカーは、相変わらずうんともすんとも言わない。
諦めて、今度は逆隣の部屋番号を押す。そしてインターフォン。
……出ない。
―――どうなってやがる、まさか皆寝てんじゃねェだろうな!
勿論そんな事はなく、社会人ならばとっくに仕事に出ている時間で、跡部らと同じく大学生であっても、皆が皆休講のはずもない。
それを分かっていながら機嫌を降下させずに居られないのは、けして跡部が短気だからという訳ではない。
そしてその怒りの矛先が、未だ部屋のベッドですやすやと眠り続けるリョーマに向いたとしても……跡部に罪はない。
結局跡部が集合玄関を突破したのは、その後10分ほど経過した後。
諦めずにトライし続けて五件目で、漸く住人との会話が出来た後だった。
自宅へ戻って真っ先に二階へと上がり。
案の定しっかりと眠っていたリョーマの肩に手を添え、乱暴に揺さぶり起こし。
溜まった鬱憤を叩き付けた、所で。
珍しい平日の休日。
無理矢理起こされたリョーマの機嫌の悪さは、寝相よりも、そして降下していた跡部自身の機嫌よりも。
そして、起き抜けの跡部が密かに願った“なるべく平穏な休日”が、叶うはずもなかったのは言うまでもない。
(2009/03/28)