ロマンチックバカンス★ボラボラ
2日目:酔いしれろ楽園。
――― シャッ!
「起きろ。朝飯が来る。食い損ねたいなら別に構わねぇが」
カーテンレールをカーテンが勢いよく走る音を、遠くの方で聞いた気がした。
ちゃぷんたぷん、と波が打ち消しあうような音や頬と髪を滑る風の潮の匂いも遠くに感じる。
聞きなれた声が何か自分に向かって何か言っているような気がしたけれど、いまいち聞き取れない。
リョーマは身を捩りながら、まだ微睡の中にいた。
そんなリョーマから、テラス越しのラグーンへ跡部は視線を移した。
今日も実に良い天気だ。降り注ぐ太陽の光は朝から既に強い光で、風に揺れる海面を照らして煌きを与えている。
聳え立つオテマヌ山もよく見える。
絵になるその風景の中、セルリアンブルーの海によく映える白いカヌーが近付いてきていた。
今朝はカヌーブレックファーストによる朝食になっている。チェックイン時に今日の朝8:30に予約していたのだ。
これも特典内。朝食をカヌーでヴィラまで運んでくれるというサービスだ。
モノトーンのアーガイル柄Tシャツに黒パンツ。ある意味場違いな……何ともバカンスらしからぬ服装で、腕を組んで立つ跡部はその内心、
カヌーが近付いてくるゆったり具合をじれったく思っていたとしても。これが、サービスだ。
「おい、起きろっつってんのが聞こえねぇのか」
もう一度、ベッドの方へ振り向いて声をかける。
けれど、リョーマは相変わらず枕1つを蹴飛ばし、着ているバスローブを盛大に乱した大胆な寝相で起きそうにもない。
今更ながら、よく寝る奴だと跡部は呆れて思わず米神を押さえた。
こうそうしている間に、テラスからカチャカチャと食器のぶつかる音が聞こえてきた。
「Ia orana!」
見れば、テラスの海へ入る為のデッキに白いカヌーが横付けされている。船首に溢れんばかりのピンクの小花が乗っている。
カヌーには草冠を被った白い衣装の2人のスタッフが乗っていて、うち1人の男性がパドルを握って操縦を担当しているようだった。
もう1人の女性の方が抱えた大きなトレイには、恐らく朝食セットだろうものが、また大量の色とりどりの花で装飾されている。
女性がトレイを手にテラスへと降りて来て、輝かんばかりの笑顔で、リゾート地らしからぬ服装の男……跡部に尋ねた。
「Outside or inside?」
跡部はガゼボとリビングに視線を遣った後、暫し考えてから答えた。
「Outside,please.」
跡部の返事を受けて、女性スタッフはまたにこりと笑うと、テラスのガゼボ内のテーブルへとセッティングを始めた。
鮮やかな青のテーブルクロスを敷くと、朝食を並べていく。
朝食のメニューはパンの盛り合わせ、チーズ、ハム、フルーツ、数種類のジャム、バター、ジュース、コーヒー。
昨晩のディナーと同じで、なかなか量がある。ガゼボの小さなテーブルに山のように並べられている。フランス領だけあって、パンはフランスパンだ。
一般的には、これだけの量があれば朝食としては十分腹を満たせるはずだ。
しかし。まだベッドに横たわっている人物ならどうか。
朝食のセッティングを終えたスタッフが去った後、跡部はベッドの縁に腰掛けると、まだ寝ているリョーマの顔を覗き込んだ。
「先に食っちまっていいのか?」
そして、リョーマの鼻をくっと摘む。
「う……!」
息苦しさにリョーマが身動ぎすると同時に、手が離れた。
リョーマはぼんやりと目を開いていく。はっきりと見える前に、ベッドの左側から何かが立ち上がったのが感覚だけで判った。
遠くに感じていたちゃぷんたぷん、と波が打ち消しあうような音や頬と髪を滑る風の潮の匂いがはっきりとしてくる。
波の音以外は静かで、少し暑い。
「……あ……そっか、タヒチだっけ、此処」
漂ってくるパンの匂いで朝食の時間だと気が付く。伸びをひとつしつつベッドから身を起すと、視線の先に見えるテラスに全身黒の人物を目に留めた。
「……ねぇ、タヒチでその格好……アンタ、馬鹿?」
プチッ!
漸く起きたリョーマの、起き抜けの声で言われたその言葉に、跡部が思わず勢いよく振り返った。
一方。
「Outside or inside?」
「えっと……ア、アウトサイドプリーズ!」
テラスを指差すジェスチャーをしながら、笑顔で乗り切ろうと答えたのは英二だ。
朝、身動きの取れない身体に違和感を覚えて目を覚ました。見れば、不二の腕の中だ。波の音以外は静かで、時間は7:00。昨晩自分がいつ寝たのか、全く記憶にない。
ゆっくり不二の腕を解いて、バスローブをきちんと着た半身を起してみると、不二はまだよく眠っていたので、今のうちに洗顔など済まして、不二が起きたらすぐ朝食にできるようにしようとベッドを這い出した。
そして、カヌーブレックファーストが来る直前に不二は目を覚まして、ベッドに腰掛けながら、スタッフの英語にあたふたしている英二を見て面白そうにしている。
英二はそんな不二を「起きてんなら不二が喋ってよ!」という目で見つつ、何とかスタッフの問い掛けに返事をした。
男性のスタッフは明るくハハと笑うと、テラスにセッティングをし始めてくれたので、英二はそれを見てほっとしたところだ。
「俺、今笑われた……?」
「違うよ。きっと一生懸命答えてくれて嬉しかったんじゃないかな」
「……一生懸命って……そうだけど、それもそれで微妙なような……」
小首を傾げて、頭を掻く英二にバスローブ姿のままの不二が近寄る。いつものように左側だけ髪を耳にかけても、亜麻色の綺麗な髪が少し乱れているのが起き抜けの証拠だ。
襟足の辺りで少し跳ねた髪をじっと英二が見ていると、不二はテラスに立つ英二に並んで、何やら男性スタッフと英語で話をし始めた。
英二も二人の会話を聞き取ろうと必死で耳を傾けたが、頭の上にクエスチョンマークが増えるばかりで、かろうじて最後の「Thank you.」が聞き取れただけだった。
そしてセッティングを終えた男性スタッフが去って行くのを見届けた後、英二は不二に尋ねた。
「何喋ってたんだよ?」
「ん?いや、“ハネムーンですか?お相手の方、とても可愛らしい方ですね”って言われたから“えぇ、僕の大切な妻です”って答えた」
「はへ!?え、ちょっと!」
しれっと答える不二に、英二は思わず赤くなる。ひとが英会話できないのをいい事に、何言ってるんだよと抗議しようとしたのを、
不二は笑って制した。
「嘘だよ、いくらなんでも見間違えるわけないだろ?君は男だよ」
確かに可愛いけどね、でもちゃんと男にしか見えないから。とまだ笑いながら英二の赤茶色の髪を撫でると、部屋の中へ入っていく。
それから今日の着替えを手にすると、バスルームのドアノブに手をかけた。その反対の手ではもう既にバスローブの紐を解きに掛かっている。
「英二、悪いけどもう少しだけ待ってて。すぐ着替えてくるから」
「それはいいけど……本当は何話してたんだよ?」
「今日の天気。それと、午後からのアクティビティはまだ予約が取れるか訊いたんだ。大丈夫みたいだから、朝御飯食べたら越前たちと相談しようね」
ガチャっとバスルームの扉が閉まる。最後の方は小さくしか聞こえなかった。
しかし、不二はいたく機嫌がいいことはよく判った。基本寝起きが弱い不二が、朝からこんなによく喋るのは英二もそう見たことはない。
取り敢えず不二が楽しそうなので、英二も楽しくなる。今日もプリズムのように輝くラグーンを眺めれば、お腹が減ったのを感じて、朝食が美味しく食べられそうだと笑顔になった。
朝食を取った後、4人は午後からのアクティビティの相談をして、アクア・サファリの予約を取った。水中散策だ。
出発は14:00でホテルに送迎が来ることになっているので、それまでの時間をホテルの敷地内を見て回ることにした。
ホテルの敷地は17万uだという。フロントに行けば無料で自転車を借りられるらしかったが、4人は徒歩を選んだ。
歩き回ると、改めて驚くのは海の透明度だ。砂地の所為か、この辺りに魚は見受けられないものの、その砂の粒が見えるほど青く綺麗で、
まるでバスタブに青い入浴剤でも溶かしたようだ。
椰子の木が茂る敷地内を巡って、プールやレストラン、ジム、ライブラリ、スパを見たが、敷地内を散歩している間ほとんど人と擦れ違わない。
プライベートビーチかと思うくらいに。
そして、見るなり4人がぴたりと足を止めてしまった此処も。
「わ、テニスコートだ。オムニコートだけど」
「本当だ。こんな暑いところでテニスする観光客ってなかなか珍しいと思うけどね……まぁリゾート地には欠かせないスポーツだけど」
「……そのなかなか珍しいのがここにいるだろ」
跡部のその言葉に、不二と英二が咄嗟にリョーマの方を向く。
その先輩2人の視線に気付いたリョーマは、2人をちらりと見ると若干素っ気無い様子で口を開いた。
「別にまだ何も言ってないじゃん」
それから昼食を取った。ポリネシア料理だ。大きな葉の上に盛り付けられたのはココナッツミルクをかけた刺身や蒸したタロイモ、焼きバナナなど、ポリネシアの郷土料理。
フランスパンも置かれていたが、白ご飯もあったのには驚いた。それをビュッフェ形式で取って、地元の習慣ということで手で食べた。
跡部の顔が始終引き攣っていたのを、他の3人が少し笑いそうになっていたのは内緒だ。
ヴィラに戻ってアクア・サファリの支度をして、14:00にフロントへ迎えに来た送迎のシャトルボートに乗り込む。
サファリベースでダイビングポイントへ行くボートへ乗り換えて、数分。
フランス人とポリネシア人のインストラクタースタッフの基本の安全確認とダイビングサインの少々長い説明を聞き終わる頃には、
英語が判らない英二と単に長い説明が苦手なリョーマが若干だれていたりしたのも……きっとそのうち良い思い出になるはずだ。多分。
さぁ、これから潜ろうという時。英二が不思議な顔をして尋ねた。
「え?耳栓するの?」
「それしてないと耳が聞こえなくなるって言ってます」
「越前。適当なこと教えないでくれるかな。英二信じるじゃないか。……3mと言えど、海に潜るから圧が変わるんだよ。耳が痛くならないように耳栓が必要なんだって。
それにしても英二、君、僕の説明ちゃんと聞いてなかったね?」
英語が判らない英二は、スタッフの説明をリョーマと不二に通訳してもらっていたのだ。
ただ、リョーマは途中から説明を聞くのが面倒になったのか、説明の主旨をかなり雑に英二に伝えるので、その度に不二が通訳し直した。
そんなややこしいことになっている間に、英二は流石家庭教師のバイトをしているだけあるというか、
意外に教え方の丁寧な跡部を見て「これならあとべーに頼んだ方が判りやすいんじゃ……」と過ぎった所為で、
正直途中から不二の通訳は碌に頭に入っていなかった。
目の前の不二の綺麗な笑みが怖くなった英二は、耳栓と四角いヘルメットを手早く着けると、そのままセルリアンブルーの透明な海に飛び込んだ。
「ちょっと、英二!」
「じゃ、俺2番で。お先です、不二先輩」
「口煩い男は嫌われるらしいからな、精々気をつけろよ」
英二が飛び込んだ時の泡が消えきらないうちに、リョーマ、跡部の順に2人も海へと飛び込む。
船上に残された不二も水中カメラを手にすると、それに続いた。
水中は、地上で見た色と同じセルリアンブルー。色とりどりの珊瑚に、飛ぶように泳ぐ魚の群れ。
砂地には、頭上で輝く波の煌きが南国の太陽を通して下りてきて、紋様が映る。
頭上に広がる、まるでプリズムのような海面に向かって、不二はシャッターを切った。
そして、振り返ると四角いヘルメット越しに英二と目があった……までは良かった。
――― ゴボゴボゴボゴボッ!!
(!?)
英二のヘルメットから出てくる酸素ボンベの泡の量が突然増えて、本人は手をバタつかせてよろめいている。
どうしたのか聞きたくても、ヘルメット越しに話せるわけもないし、おまけに耳栓付きだ。
そう、サファリ中は会話ができないのである。ジェスチャーが全て。
取り敢えず近付こうとするが、英二は「来るな」と手で払う。そこで不二も気付く。―――英二は、不二を見て笑っているのだ。
(ふ、不二……似合わなさすぎ……あははは!)
(何言ってるのさ、君だって一緒じゃないか!)
50cmの立方体に顔を突っ込んで、ジャグジーのように泡をぼこぼこ出している不二が間抜けで面白くて仕方ないらしい英二は、
手で四角い箱のジェスチャーをしてまだ笑っている。対して、何故か読唇術の心得もあるらしい不二は自分と英二を交互に指して必死に抗議する。
……とても、とても滑稽だ。
(……他にやることあると思いますけど)
同じように泡をぼこぼこ出しながら近付いてきたリョーマに、肩を突かれて、2人は漸く止まった。
気付けばトロピカルフィッシュの群れが幾つも3人を取り囲んでいる。
事前に配られた餌のパンをリョーマが手のひらに乗せると、面白いようにその左手に集まってくる。まるで魔法使いか何かのようだ。
それを食い入るように見ている英二。リョーマはそんな先輩に「自分でやればいいじゃん」とどうやら存在をすっかり忘れているらしい、英二の手に握られている袋を指すジェスチャーをした。
(あ、そっか!)
(……先輩、サカナ食べちゃ駄目っすよ)
(え?何?おチビもうトイレ行きたいのかよ?)
中等部の頃から猫に比喩されることが多かった先輩に向かって、リョーマが言った冗談は全く理解されていない。掠りもしなかった。
そもそも普段からジェスチャーの少ないリョーマなので、海中になると非常に判り辛い。
英二は不二のような読唇術はないので、“リョーマはトイレに行きたいと言っている”という的外れも酷い解釈だ。
ヘルメットの側面に手を当ててリョーマに向ける英二は「何?」と訊きたいらしいが。
(どう見ても不審者じゃん)
そんな英二と自分の光景を、2mほど離れて水中カメラに収めている、ヘルメットの似合わない不二に向かって零した一言が聞こえないのは便利だと言える。
その時。不審者にしか見えない先輩の向こうから、トロピカルフィッシュの群れを散らしながら、大きな黒くて薄い何かが近付いてくるのが見えた。
リョーマが目を凝らしていると、それに気付いた英二がそちらを向けば。
(え……!あ、あれ何!?)
(でかっ)
その物体はあっと言う間に3人の頭上を通り、4mほどのひし形の巨体分の影を落とした。
そしてそのまま悠然と泳ぎ去っていくのを、3人はじっと見詰めていた。
(……オニイトマキエイ……マンタだね)
“運よくマンタを見ることが出来ると、幸せになれる”。そんなジンクスがあるのだと、リョーマたちを追って海へ入る前にインストラクターが話していたことを不二は思い出す。
何ともロマンチックなジンクスだが、残念ながら教えてもらったところで今、伝える術がない。不二が呟いた、物体の正体もリョーマと英二に聞こえるわけもない。
2人は泡をごぼごぼ吹きながら、首を傾げている。
取り敢えず不二は2人を手招きすると、事前にインストラクターから渡されていた魚一覧表の中から、巨大な魚の正体を指し示してやった。
……が、3人もピンポイントに集まると酸素ボンベから出る泡で視界がいっぱいで、見難くて仕方なかったのはご愛嬌ということで。
そして3人が四角いヘルメット……いや、頭を寄せて一覧表を覗き込んでいると、突如英二が何かに弾かれたように勢いよく顔を上げた所為で、
リョーマにゴツンとぶつかった。突然のことに、リョーマはらしくなくよたよたとよろめく。
(何すか!いきなり)
思わず英二を見遣ると、英二は何やらリョーマに向かって必死にジェスチャーしている。
親指とその他4本の指を両手でそれぞれ徐々にくっ付ける動きを、ヘルメットの側面から上へ弧を描くように。
(は?)
申し訳ないが、耳から角が生えているとしか思えないジェスチャーに、リョーマは眉を寄せる。突然始まった英二の奇行に、不二も怪訝な顔をして……いるが見え辛いというのは置いておいて。
何やら慌てているようなので、ふざけているわけではないらしい。ということぐらいは判る。寧ろ、それしか判らない。そして英二にも不二にも、自分にも角は生えていない。
曇るリョーマの表情を見て、英二は次のジェスチャーに移ったようだ。必死に右目の辺りを指している。
(え?目?)
微妙に目を細めているらしいが、何のことやらさっぱりだ。右ばかりを指すので、左ではなくて右でなければいけないことは伺える。
何と判り辛いヒントか。そんなことをしている間にも、チョウチョウウオやらの魚がまた身体を廻るようにして泳いでは、
英二やリョーマの手に握られた餌を突こうとしている。
(英二先輩何やってんの?)
首を傾げるリョーマに、また英二は次のジェスチャーで訴えた。右手の5本指を僅かに広げて、それを自分の顔の前に翳す。
それだけで、英二は動かない。リョーマはますます理解不能になる。そんなリョーマに、英二は地団駄を踏んで、砂が僅かに舞い上がる。
(だから何すか、その変なポーズ)
いい加減にして下さいよ、と文句を言……示そうとした。
一歩近付いて、英二のゆっくりとした大きな口の動きでリョーマは漸く気付く。
(あ、と、べ!)
……あぁ!そういえば。
何たることか。3人は跡部を忘れていたのだ。しかも、一番に思い出したのがリョーマではないというのだから跡部も報われない。
それでも何とか跡部を思い出したリョーマは周囲を見渡す。正直、今でも「別に放っておいても問題ない」と思っているのは秘密のままで。辺りは珊瑚と岩場、そしてトロピカルフィッシュの群れ、群れ、群れ。ポストカードにありそうな美しい海。
すると、今度は不二がリョーマと英二の肩を突いた。そして指差す。何かを言っているのか聞こえないが、多分言っていることはこうだ。
(ねぇ……あれ、何だろう)
数m先に、黒山の人集り……否、黒山のエイ集りが。動体視力の良いリョーマと英二が2人で目を凝らすと、やはりエイが一箇所に集まっている。
この辺りはアカエイのスポットだと言われて連れて来られたが、そう言えばチョウチョウウオなどばかりで、まだアカエイを一匹も見ていなかったことを思い出す。
まさかあんな所に集まっていたとは。
そんなことを思い出しているうちに、3人はそのエイ集りの中に、人影と見覚えのある水着を見つけた。
……答えは、簡単だった。
(あとべー!!)
失踪したと思われていた跡部は、大量のアカエイに集られていたのだ―――!!
よく見れば、1mほどのアカエイが何故か跡部に群がっていて、そのエイ集りの勢いに時折よろめく手足が見える。
ごぼごぼと無数の泡が海面へ登っていくのだが、その泡が発生している場所に跡部がいるらしい。
跡部というより、跡部の餌に群がっているのだろうが、何故跡部だけにエイばかりが。全く以って不明。
ただ、その状況を理解した3人は大笑いだ。
(ははははは!……ちょ、っと……跡部!何やってるの、あれ!)
(ぷっ……ヤバイ、あの人エイにモテ過ぎ……!不二先輩、カメラ)
不二にカメラを貸してくれというジャスチャーをして、カメラを手に入れたリョーマはエイに大人気な跡部を撮ろうとするが、笑って手がブレる始末。
そうこうしている間に、跡部の持っていた餌がなくなったのかエイたちが素早く去って行く勢いに余されて、跡部が後ろへ派手にひっくり返れば、ばうん!と砂が舞い上がって最早跡部が見えない。
それを見た不二とリョーマはやはり笑いが止まらず、英二に至ってはもう立っていられずに地面にしゃがみ込んでいる。
(てめぇら……!!)
起き上がると水の抵抗を物ともせず跡部が早足で3人の元へやってきて、その鋭い視線と一緒にで文句を訴えたのは言うまでもない。
だが、いくら怒鳴ろうとそれが3人には全く聞こえていないことを、怒りに任せて失念してしまっているのも言うまでもない。
その後、4人は残りの時間を珊瑚に触ったり、水中撮影をしたり、餌やりの続きや魚鑑賞をして楽しんだ。
500種類もの綺麗な魚たちが印象的な海を、何とも印象深い思い出と共に。
アクア・サファリを終えると、4人はディナーにレストランへ向かった。
空腹なことももちろんあったが、今晩は呑みたいからという理由もある。
タヒチでは17歳から酒を飲むことができるので、リョーマも堂々と呑むことができる。
レストランへ向かう道すがら、昨日は台無しに終わったタヒチのコバルト・バイオレット色の夕暮れを見た。
立ち並ぶヴィラやレストランなど施設の灯りが点き始めて、また幻想的な夜が始まろうとしている。
そこへ今日は浜辺から打楽器と弦楽器で奏でられる音楽が聞こえてきていた。
今晩のディナーはフランス料理のコースを頼むことにした。メニューは前菜にスモークサーモンのレモンソース・キャビア添え、
魚がアオブ鯛と野菜のフレッシュトマトソース、メインにはビーフステーキとフォアグラのオニオンソース。
それだけでは足りないリョーマはその後に追加注文をして、そこにデザートだけ英二が便乗した。
デザートは現地のもので、焼いたバナナをココナツに入れたポエというものと、焼きパパイヤのココナツ・ミルクがけが来た。
レストランを後にしたのは、19:00頃。レストラン近くのバーに移動することになった。
ここのバーは半分がプールバーで、半分が通常のバーという造りだ。
南国の自然そのままを活かしたプールに向かって開かれたバーは、プールのライトアップや、店内の照明が水面を照らして、
それが跳ね返る天井には波の紋が揺れながら映し出されている。
店内の一角にこうして4人でいると、リョーマのバイト先にいる時と似たような感覚だ。違うのは、ここではリョーマも客だということ。
「こうしてると『Magic To Do』でいるのとあまり大差ないかな」
「おチビさ、ここのメニュー覚えて帰って今度作ってよ」
「何堂々とパクり宣言してんすか。……でも今度何か奢ってくれるなら話は別ってことで」
ふふん、と笑うリョーマの交渉に英二が「おかず1品お裾分けに負けろ!」と言っている間に、オーダーしたドリンクが揃った。
他の席でも並べられている、鮮やかな彩りのカクテルと、それを装飾するフルーツと南国の花が店内照明に照らされて、より華やかに存在感を放つ。
3人が話している傍で、跡部は一人煙草の箱を一度大きく揺すって、頭を出した1本を銜えた。
ところが、ライターを探ろうとしたところでリョーマに、テーブル上の小さなプレートを弾かれた。
「もしもし、アカエイにモテまくりな人?“No Smoking”」
形の良い眉をピクリと跳ねさせつつも、跡部が大人しく煙草を仕舞ったところで4人は改めて乾杯をして、夜を仕切り直した。
ヴィラに戻ったのは21:00を少し回った頃だった。
飲み直しをしようと、バーで適当に酒を買って跡部とリョーマのヴィラに持ち込んだ。
リビングのテーブルの籠に山の様に盛られたフルーツを英二が切って、それを摘みながら南国の夜を楽しみ直している。
既にバーで多少アルコールを煽った後の4人の話題は、かつての仲間達の近況のようだ。……ちなみに、昼間の跡部エイ騒動で一頻り笑った後で。
「だからさぁ、大石はやっぱ勉強で忙しいみたい。医学生は大変だよなぁ……話聞いてるだけで俺は無理」
最近久しぶりに大石と電話で少し話をしたという英二が、げっそりという表現が似合う表情で、目の前のグラスに手を伸ばす。既に若干舌足らずな口調。
紙パックに入った「タヒチドリンク」というアルコール度数の低い甘口カクテルだが、味見をした隣の一人掛けソファに座る跡部に言わせれば「こんなもんジュースじゃねぇか」らしい。
そんな跡部はパイナップルリキュールの「オー・ド・ヴィ」度数25のボトルを開けていて、その向かいでタヒチドリンクをタヒチ産ビールで割って飲むリョーマ。
……英二とリョーマは酒を飲む割合よりフルーツを摘んでいる割合の方が高いのだけれど。但し、リョーマは酒に強いのに敢えて、だ。
「そういえば最近手塚が変なんだよねぇ……」
「……あ?病気か?」
まぁ、ある種そうとも言うかな。
すらりと長い指でグラスを揺らして、氷を回すと、ふふっと笑って不二は一気にグラスの中身を干した。
「手塚」という名前に何故か若干目を見開いたのは跡部とリョーマだ。中等部の頃からの因縁やらがあって、何かしら気になるのかもしれない。
何処のスーパーの安売りの話だとか以外では、この話題が一番食い付きが良いのだから、何だか笑える話だ。手塚もまさかこんな南国で、このメンバーに話のネタにされているとは思うまい。
「最近付き合いが悪くてさー、話しててもずっと携帯気にしてるんだよね」
「あー……確かに、服装もなーんか変わってきたかも?何がどうってわけじゃないけど」
「手塚にもそういう話あんのかよ?春遅すぎで笑えるぜ」
「そういえばこの間、構内の本屋でお出掛けマップ系の雑誌立ち読みしてたの部長かも」
「手塚車持ってたっけー?」
「持ってる。えっとねー……何だったかな……免許は2回生の春に取ったはずだけど」
「えぇー?手塚誰と付き合ってんだろ?まだ好きな人レベルかなー?」
酔いから声韻が甘くなった声でへへへっと悪戯っ子のように笑う英二は楽しそうだ。あの無表情キングが、と考えただけで面白い。
隣に座っている不二も、同じことを考えているのか、グラスにリキュールを注ぎながら笑う。
「ま、部長にだって付き合ってる人くらいいるでしょ」
話題に飽きたのか、リョーマはマンゴーばかりを選んで摘んでいる。
バーで呑み、今タヒチドリンクのビール割を飲んでいても、全く酔った素振りもないところは恐るべし。
それに対して、英二はパイナップルばかり選んで食べながら、少々酔いが回った様子で「今度紹介してもーらお」と満足げだ。
その英二の言葉が不満だったのか、不二はリキュールを一口飲んでから、英二の手から食べている途中のパイナップルを奪うと、
一舐めしてから齧って、またリキュールを口にした。
「手塚に恋人か……ふふっ、手塚ってなかなか手出さなさそうだよねぇ」
「そりゃあな。お前とは違うだろ。世の中どっちに好感あるか訊いてみろ。手塚に軍配だ」
ハ、と笑った跡部もカラリという氷の音と共にリキュールを口にする。が。
「あれ?跡部はさー、上げ膳据え膳越前食わぬは男の恥って知らないんだ?君、ちゃんと付いてるの?」
ブフッ!
思わず酒を吹いたのは、跡部と英二だ。それはどんな造語だ!とか適当な物言いにも程があるだろ!とか、言いたい文句が出ないほどにアルコールに咽る。
天才と書いて馬鹿と読むのか。いや、不二と書いて馬鹿か。右腕をソファの背凭れに回し、左手でグラスを呷る不二の格好は何とも横柄感漂う。
余程この楽園に気分がよろしくなっているらしいことは判る。
そんな何とも愉快そうにしている先輩に向かって、造語にも全く動じずリョーマがぴしゃりと。
「……俺の記憶が正しければ、ここにいるのって全員男でしょ。俺、誰にも食われたことないけど」
“誰にも”?
思わずリョーマを見たのも、跡部と英二だ。英二に至っては、バカ正直につい跡部とリョーマを大きな目で交互に追ってしまう。
ただし、リョーマには何ら問題はない。“食われた”という表現が気に食わないだけで、そういう表現では恋人だって該当しないと思っただけの話。
そんなことはご丁寧に説明することもなく、皿の上の最後のマンゴーを頬張って、にやりと笑う。
跡部はグラスに少量残った酒を、その逞しい首筋を晒すほど勢いよく仰いで飲み切ると、濡れたテーブルを手拭で拭き始める。
すると、一口含んだ酒に今度は不二が咽そうなりながら、ははは!と大笑いし始めたから、跡部とリョーマと英二の3人は寧ろそっちに驚きだ。
「っはは……そっか、跡部と越前……へーえ、なるほどねぇ。僕は上げ膳を食べなかったことはないけどなぁ」
「あぁ?何か?お前は俺が男として問題があるって言いたいのか?」
「いや?君が単なる棒じゃないことを願ってあげてるだけだよ?中学時代からのさー、友人としてね。あ、ねぇ……そっちのボトル貸して」
掻きあげているのか、乱しているのか判らない手付きで髪に手を通しながら、不二が反対の手で跡部の前のボトルに手を伸ばす。
お前が発言して恥ずかしいのはお前より俺だって判ってんの?ご機嫌よろしく珍しく爆笑なんかしてくれちゃってさー!
つーか何かお前さっきから開けっ広げ過ぎない?と英二は思わず不二を睨んだ。
が、そこで英二はふと気付いた。気付いてしまった。いや、漸く気付けた。
「なぁ、不二ぃ……ちょっと待って。お前今日呑み過ぎじゃない?」
「えぇ?そんなことないよ?だってさー、僕がアルコール強いの、英二よく知ってるじゃない。ほーら、元気」
絶対におかしい。
突然意味不明な上半身ストレッチを始めたから、英二の混乱がピークに達する。加えて、いつもより何だか軽い声の不二の返答を聞いて疑念は確証に変わった気がしたのは、英二だけではない。跡部とリョーマも不二を見遣った。
そして、英二は自分もアルコールで少しふわふわと浮いた頭で、思い出す。バーでの不二をだ。
「マイタイはタヒチ発祥のカクテルだから味わっておかないと」だの、「マイタイってタヒチ語で“最高”って意味らしいよ」だの
言いながら上機嫌で花の刺さったブラウン系グラデーションのカクテルを干していた気がする。
そのロックグラスに花と一緒に刺さっていたパイナップルを、勝手に拝借して食べていたのは自分だったということも。
そして。
「あ」
更に英二は思い出す。
パイナップルを食べるついでに、一口試させてもらうと、そのアルコール度数に驚いて、英二はすぐグラスを置いた。
そんな英二を見て、不二は言ったのだ「甘辛口で結構呑みやすいし、まさにトロピカルって感じで美味しいけど、ラムベースだから度数25あるんだよ」と。
そう言ったくせに、ラムは果物とよく合うからと、ラムベースのトロピカルカクテル中心に注文を続けていた気がする。
吃驚したのはタヒチ名産の、熟したパイナップルを発酵し蒸留させた「オー・ド・ヴィ」の度数40まで手を付けていたことだ。
部屋呑みを始めてからは、バーで購入してきた、そのパイナップルリキュールの度数25のものを楽しんでいて。
同じことを考えたのだろうリョーマが、そのボトルを振ってみれば、いつの間にやらボトルは空だ。
「……不二先輩が酒に呑まれてるの、初めて見た」
そりゃ呑み過ぎだろ。何が可笑しいのか隣でケラケラと笑っている不二を見ていると、英二は苦笑いするしかなくなると同時に、
段々自分の酔いが醒めて来る感覚を覚えた。頭の何処かに神様が降りて来て言うのだ、「お前まで酔ったら終わりだ。酔っている場合じゃない」。
その間に、リョーマは不二の目の前に指を1本、2本と立てては数を数えさせて、具合を看ているのか遊んでいるのか。
不二はまたくすっと笑うと、何やらリョーマに耳打ちして絡んでいるが、ただの酔っ払いの絡みにしか見えない。
「菊丸。連れて帰れ。これ以上呑ませんじゃねぇ。今のうちならまだ肩貸せば歩けるだろ」
「そうする……俺もこんなに酔ってる不二、見たことないもん」
氷がカラリと鳴る音と共に、ロックグラスを置きながら跡部が促す。
英二が見たことがないのだから、当然跡部だってこんなに酔っている不二は見たことがない。
リョーマのバイト先でも、不二は基本的に割とハイペースで飲んでも酔いが見られないほど酒に強いことは判っていたので、
跡部も今晩の不二のペースを止めるでもなかった。
が、酔うとこんな悪質だとは。しかし跡部はふと我に返る。普段でも面倒な奴なのだから、酔えば悪質なのは判りきった話か、と。
本人は否定しているが、どう見てもこの不二は酔っている。
ソファに完全に身を預けていた不二を、片腕を担ぐように英二が引っ張り上げるのも一苦労なほど。
「おい、一人で行けるのか?」
「ふふっ……うっわ、跡部が優しいねー、英二?明日はスコールだ。ははっ、ねぇ跡部、ちゃんと付いてるか見せろよ」
その様子を見かねて声をかけた跡部に英二が返事するより先に、覚束ない足取りの不二がへらへらと笑った。
本人としては英二の肩を抱いているつもりなのだろうが、どう見ても英二が支えている格好で。
珍しい不二に、リョーマは呆然としている。
後輩にこんな醜態を晒してしまったのが恥ずかしいのか、英二の方がバツが悪そうに苦笑いで慌てて取り繕う。
今限定で言えば、酔っているだけで状況を理解していない方が幸せだろうか。
「あ、うん。大丈夫!部屋目の前だし。サンキューねー。ほいじゃあまた明日ぁ!」
酒を飲んだ時の英二特有の若干呂律の回っていない口調でそういうと、英二は自分とほぼ同じ体格の酔っ払いを引き摺って、
跡部とリョーマの部屋を後にした。英二は呂律こそ回っていないが、頭の芯は醒めているので大丈夫だろう。
問題は、扉を閉めるまでずっとくすくすと笑い声を響かせていたあっちの方だ。
跡部とリョーマは思わず、閉まった後も扉を見詰めてしまっていた。
「明日確実二日酔いじゃん、あれ」
部屋に戻った静けさの中でリョーマは言葉を放つと、フルーツの盛られた皿からパイナップルを1つ摘んだ。
これも楽園の魅惑の魔法なのだろうか。まさか2日目の夜にこんな事態になろうとは。予想外なお開きだ。
跡部は悪友の面白いものを見て笑えて来ると同時に、少しの溜め息を吐いた……とか吐かないとか。