ロマンチックバカンス★ボラボラ

3日目 : お願いオープンハート。



 ドッボーーーーーンッ!!

 何かが激しく水に打ち付ける音に、不二は目を覚ました。
 ぼんやり、ゆっくり目を開いていくと視界は真っ白。自分がうつ伏せている体勢だということが判る。 そのまま目だけを動かし、シーツの海を辿ると、探した人はいない。どうやら、もう起きたようだ。
 派手な水飛沫の音が聞こえて以来、静かな波の音しか聞こえない。夢だったのかとゆったりと瞬きをする。

(……そもそも今何時なんだ……朝、だよね……え……?)

 不二は目を見開いて、ぴたりと止まった。思考も含めて。室内の明るさに、何だか嫌な汗と焦燥感が背中を走っていく。

「朝!?っつ!……う……」

 固まっていたのを一転、勢いよく上半身を起したまでは良かったが、その衝撃分……あるいは衝撃分以上の頭痛が不二を襲った。 思わず米神を押さえて前のめりになる。ズキズキと頭の芯に食い込むような痛み、胃の重苦しさ、そして極度の喉の渇き。 馴染みのあるものではないけれど、この不調の原因は察しがつく。

「……二日酔い……まさか……嘘だ」

 はは、と込み上がるままに自嘲しながら、ゆっくりと顔を上げると、目の前に広がるオーシャン・ビューは太陽が出ていることを知らせるように眩く煌いているではないか。 不二は逃れようのないほど、今度こそ突きつけられた事実に、もう一度ベッドに沈んだ。柔らかいベッドスプリングに受け止められた衝撃さえ、頭痛に変わる忌々しさに眉を寄せながら。
 広いキングサイズベッドに手を伸ばすと、シーツが冷たい。どうやらとっくに英二は目覚めているらしいことを知って、不二はますます落ち込む。
 一体、自分は昨日どうなって今こうなっているのか。あまり言う事の聞きそうにない身体でじっとしながら、それをゆっくりと思い出してみる。
 ……けれど、跡部とリョーマのヴィラで酒を呷っていたことは覚えているものの、部屋に戻ってきた記憶がない。もちろん、ベッドに上がった記憶もなければ、バスローブに着替えた記憶があるはずもない。 微かに覚えているのは、手塚の話が出たところぐらいまでだ。後は靄が掛かったように見えそうで見えない状態。

「最悪だ。……英二、怒ってるだろうな」

 着替えまで全てやってくれたのは英二に違いない。勝手に呑み過ぎて、勝手に酔い潰れたのだ、英二だって怒るだろう。 一体どんな顔で会えば良いんだ……と亜麻色の髪をくしゃくしゃっと掻くと、溜め息が出た。 英二の顔を早く見たいような、見たくないような。シャワーにでも行っているんだろうかと、鈍痛のする頭で考えた……その時。

「……?」

 べちゃ、べちゃ、と水気のあるものが床を打つ音。その音がする源、テラスの方を向いて不二は驚いた。

「英二!?どうし……っい……」
「わっ、不二!……あ、や、ううん!な、何でもない!こけてジャグジーに突っ込んだけ……おはよ!」

 わけが判らない。
 どうして英二はテラスから全身ぼとぼとに濡れて入ってきたのか。二日酔いの頭で考えても判る。 「こけてジャグジーに突っ込んだ」なんて嘘だということくらい。現に、英二はジャグジーの方から来たのではないのだ。 しかも、とって付けたように「おはよう」なんて、動揺もいいところだ。
 そこで思い出す。夢かと思った、あの激しい水音。明らかに水飛沫が上がっただろうくらいの。あれは、英二が海に落ちた音だったのだ。 そう思えば不二も合点がいった。……ただし、どうしてそんなことになったかは不明。

「ねぇ、英二……」
「それより!不二、お前大丈夫?頭痛いだろ。あんなにもよく呑むよなぁ……ちょっとは懲りろよ?」

 テラスの入り口でバスローブを絞って水気を切りながら、英二は笑う。それを見て、不二は拍子抜けした。 てっきり怒られると思っていた。口すら利いてもらえないのではないかとまで思っていたのに。 セルリアンブルーのラグーンを背景に、何故かずぶ濡れの英二は笑っている。何となく、少し恥ずかしそうなのが気にはなるが。

「きょ、今日動けそう?無理だったら何か考えるけど……」

 どうも様子がおかしい。何かを隠していて、それを隠すために自分を怒ることすら霞んでいるんじゃないか。 不二は痛みの響く頭でそんなことを勘繰り始めていたが、英二の言葉を聞いて、それどころではなくなった。
 2日目の夜を自分の失態で無駄にしたのだ。今日こそは汚名返上しなければ、日本に帰って三行半が待っている……なんてことになっては困る。 “南太平洋の最後の楽園”タヒチを“最後の良い思い出”にするつもりは毛頭ないのだ。頭痛にも構わず、不二は頭を振った。

「いや、大丈夫。今日の予定はもう決めてあるんだ。……っ、とっておきの場所に案内、するよ」

 ベッドを下りて立った途端に走った気持悪さに思わず目を閉じた不二の、バスルームに入っていく後ろ姿を見ながら、 英二が隣のヴィラを見遣って胸を撫で下ろしたのは英二の秘密事項である。




「あ、不二!あれ、カニ!昔兄ちゃんとよく探しに行ったっけ」

 カニ……そうだね、可愛いね。あぁ……カニ。
 カニやらヤドカリやらを指差して、その行方を覗き込んでいる英二。その傍にしゃがみ込んで溜め息を吐くのは不二だ。
 不二の言う“とっておきの場所”はカニやヤドカリの棲家だったのかというと、断じてそうではない。

 不二が英二を連れて行きたかったのは、ツパイ島だ。青春台商店街の大抽選会の特賞がタヒチ旅行だと知った瞬間から、 タヒチに、ボラボラ島に、そしてこのツパイ島にひたすらに思いを馳せてきた。それは何故か。 ツパイ島は、この世界の不思議の一つと言えよう、見事なオープンハート型をした島なのだ。上陸することはできない。 だが、ヘリコプターで遊覧することができる。不二は、その遊覧飛行に英二を連れて行きたかったのだ。
 ツパイ島を一緒に見た2人は恋に落ちる―――そんなロマンチックの塊のような伝説がある。 もう6年も7年も前から恋に落ちて、同棲して3年目の2人が見ることに意味があるのかなんて、不二にはどうだっていいのだ。 とにかく、素敵な伝説をハート型の島を眺めながら英二に囁きたくて仕方がないのである。 タヒチのガイドブックで何度、ツパイ島の写真を眺めたことか。コバルトブルーの海に浮かぶ、豊かな緑が描くハートを。

「おわ、あっちもカニ!不二、やっぱここすっげいっぱいカニいる」

 それが一体どうなって、カニ遊びになっているのか。
 理由は簡単、その肝心のヘリが来ないから。
 ルームサービスを頼んで、朝食をヴィラに運んでもらい、済ませた後に、英二が跡部とリョーマに予定を訊く為内線電話をかけた。 ヴィラ2つのこの近距離で、どうして英二は直接訊きに行かずに内線電話なんて慣れないものを使ったのか。 そして、若干落ち着きがない上にやたらと早口なのは何故なのか。不二は思わず怪訝な顔で、英二の後ろ姿を見ていたのだが、何とか話終えたらしい。 元々、午後の予定を不二が予約していたこと、2人はテニスをするつもりだということで別行動になった。
 そして、バトラーに連絡して呼んだ、リゾート敷地内のカートに乗って数分。ヘリポートに着いたは良いが、ヘリが来ない。 カートを運転していたスタッフに尋ねると、「どうやら遅れているようですが、すぐ来ますよ」と言われてその時は納得した不二だったが、 先程から待てど暮らせど空にプロペラ音がする気配もない。挙句、気が付いたときにはスタッフがカートごといなくなっていた。
 スタッフと不二の会話が理解できなかった英二に、

『海外は日本と違って時間がアバウトだからね。大丈夫、心配ないよ』

 と、言ってから、英二の岩場散策が始まったのだ。
 そんな英二を眺めながら、不二はまだすっきりしない頭を抱えて岩場に腰を下ろした。 二日酔いなんてしたことのない不二だ、そんな薬を持ってきているわけもない。 二日酔いに効くかは疑わしいものの、念のために持ってきた頭痛薬を呑んだ。朝食にはコーヒーではなく、ひたすらオレンジジュースを飲んで。

(……やっぱり、胃腸薬も持ってくるんだった……)

 胃を摩りながら、周囲を見渡す。実は、このヘリポート、ヘリポートとは思えないほど質素だから到着した時には驚いた。
 埠頭にありそうな倉庫らしき建物が一つ、コンクリート舗装された道が伸びきった草の合間からやっと見えるような場所に建っているだけ。 倉庫らしき建物の背後には青々と茂った熱帯性植物が、潮風に揺れている。一体何処に、ヘリが止まるのか、未だに判らない。 建物の前に横7m、縦3mほどのコンクリートエリアがあるように見えなくもないが、もしやそれがヘリポートなのか。 そんな疑問が湧くほど質素な場所に放置されると、拉致でもされたような気分にならないでもない。
 ところが、英二はと言えば、近くの岩場でカニやら珊瑚やらを探してそれなりに楽しんでいる。 浅瀬故にセルリアンブルーではなく、透明に近い色をした海に立つ、ごつごつした岩たちを軽く飛び越えながら。 その様子は、20歳の大学生とは思えないから不二もまだ穏やかな気持ちで、カメラに収めながら待っていられる。
 そして、愛しさが増すほど早く英二に伝説を囁きたくて仕方がない。

 待つこと1時間。流石に英二も飽きてきた頃に、待望のヘリと……何故かカートが一台同時に到着した。

「Thank you for waiting!」

 ヘリの操縦席から顔を覗かせる、黒サングラスに白い操縦士制服、口髭付きで見事な日焼けっぷりの中年男性。 カートを操縦していた青年男性スタッフ。双方ともが、どうみても申し訳ない様子もなく快活に笑いながら言う。 この程度の英語は理解できたらしい英二は、目の前に降り立った真っ白なヘリをみてしきりに「カッコイイ」を連発している。

 不二は、取りあえずヘリが来たことにほっとしたのだが、操縦士から聞かされる話に衝撃を受けることになるのだった。




 ―――バラバラバラバラバラ……

 ツパイ島は、ボラボラ島から北16kmに位置する。ヘリで5分も飛べば見えてくるのだという。
 出発時間は大幅に遅れたものの離陸は無事に済み、ヘリはいざ北16km、“愛の神様の贈り物”と名のつくオープンハートの島を目指した。プロペラ音が景気よく鳴っている。
 目下に広がるコバルトブルーの海は、3日前プロペラジェットから見た風景と同じ輝きだ。そこにホテルの水上コテージがいくつも浮かんでいる。 太陽の光が海に反射すると、青いはずの海が時折銀色に見えるのは不思議だ。 一方、周囲に見える雲は、絵本に出てくるようなもこもことした立体感があり、躍動感がある。その雲を突き抜けんばかりに、ボラボラ島のシンボル、オテマヌ山が聳え立つ。 プロペラジェットよりも近くに見るオテマヌ山の絶壁は、何とも迫力があり、自然の雄大さを感じる。絶景につぐ絶景。

 しかし、不二の機嫌は頗る悪い。いや、機嫌が悪いというか、落ち込みの極致なのだ。
 それもそのはず。

「あ、大学生なんですか?」
「そうなんです、3回生で……福引で当たっちゃって!折角だしって来たんです」
「えー凄い!そんな大盤振る舞いな福引あるんですねー」

 そうさ。その大盤振る舞いな福引きをツパイ目的で当てたのは僕だ。

「お友達も3回生なんですか?」

 僕は“お友達”じゃない!付き合って6年、同棲して3年の“友達”なんているもんか。

「私達新婚旅行で……」
「あ、やっぱりそうなんですか!」

 この狭いヘリの中、不二が一体何回心の中でやさぐれたか。
 なんと、新婚カップルと同乗しているのだ。二日酔い状態で、名誉挽回に燃える不二を待ち受けていた衝撃……それは、 「ツパイ島遊覧飛行は最少催行人数4名」という条件だった。カートがもう一台やってきたのは、その為だ。 20代後半と思しき、訊かなくても判るほどに新婚オーラの出ている日本人カップルが現れたのだ。
 その瞬間の、呆然とした不二の顔といったらない。幸い、その瞬間を誰も見ていなかったのだが。
 更なる追い討ちをかけたのは、ヘリは後部座席に3人、操縦席横に1人という配置だったことだ。 この状況を見て、新婚カップルを別々に座らせるわけにはいかない。 自分達の関係を開けっ広げにできない以上、どう見てもこっちは男友達2人組なのだから。 こんな状況で器の狭い男にはなりたくない不二が、 率先して「僕が前に座るよ」と言ったのだ。内心、渋々。

「3年半付き合って結婚したんです」
「3年半かぁ……おめでとうございます!」

 そして、幸か不幸か、新婚カップルはとても気さくだった。いや、この狭い空間で感じ悪く2人だけの世界をつくるようなタイプでも困るのだが、 このカップルは一緒に座る英二と何とも楽しそうにしている。元々人懐っこい英二、すっかり馴染んで会話しているのだ。 一人で前の席に座る不二は蚊帳の外。と言うか、あまりのショックとヘリの揺れ具合で二日酔いから若干吐き気がして、会話に入る気力がないのが正しいところ。
 仕方がないので、カメラのシャッターを切っていると、突然何を思ったか操縦士に「友人との旅行も良いですね」と声をかけられた。 またその“友人”が気になって、ふふっと綺麗に笑った不二の返答に、昨日の朝とは違って「My wife」という単語が本当に混ざっていたのを、後ろで賑やかにやっている英二が聞いているはずもない。
 不思議そうな顔をした操縦士を尻目に、不二が気分良くなっていると。

「わ、あれ!」
「すごい!本当にハートなんだ!」

 青い青い海の上に、はっきりとオープンハートが現れた。
 よく見れば、ハートに見えなくもない。そんな曖昧なものではなく、きっとどんな子供が見ても間違いなく「ハートだ」と答えるに違いないほど、 ツパイという島はハートの形を成しているのだ。木々の緑を砂地が縁取り、その外側をラグーンのセルリアンブルー、 更に外側を白い波が囲んでいる。爽やかなグラデーションのオープンハートの島は、その色合いの爽やかさとは似つかわしくないほどロマンチックな世界の奇跡の姿を見せる。 これが、“愛の神様の贈り物”。南太平洋は、何と神秘的な海なのか。

「こんなの、有り得るんだなー……すっげキレイ!なぁ、不二!」
「そうだね。……英二、気に入った?」
「うん。不二の言ってた“とっておき”ってこれだったんだな。確かにこれは“とっておき”」

 はしゃぐ英二の声がシート越しに聞こえる。シートにしがみ付いて話しているその顔が見たいのに、それは叶わない。 きっと本当に嬉しそうな表情をしているんだろうと思うと、例の伝説を囁きたくて堪らなくなる。 そしてその伝説を聞いた英二がどんな反応をするのか見たかったのに。
 ……囁くどころか、顔すら見れない。

 ヘリはツパイ島の上空を、ゆったりと飛んで、その奇跡の姿をしかと見せてくれる。 新婚カップルも英二も、窓の外を覗き込んですっかり見蕩れている。 不二ももちろんシャッターを切ったが、一通り済むと、窓枠に寄りかかって頬杖をつきながらツパイを眺めた。

 実はこのツアー、2人で7万円もしている。
 セレブならまだしも、節約生活を送る身には手痛い……良いお値段だ。しかもこのツアーは、他のアクティビティとは別で、 現地予約ではなく日本で予約しておく必要がある。だから、英二にサプライズとして用意したかった不二は、 跡部たちを含め4人で旅行の手続きに行ったのとは別に、一人で旅行会社を訪れてこのツアーを手配したのだ。 サプライズなのでもちろん、2人分の費用は不二が出した。こういうこともあろうかと英二には秘密で貯蓄していた金だ。
 ツアー所要時間約2時間のうち、飛行時間は僅か25分。ツパイまでの往復所要時間を差し引けば、ツパイ上空滞在は約15分。 その15分間で、例の伝説を囁き、英二への愛を切々と語ろうと思っていたのだ。 どうせ跡部やリョーマはツパイには興味はないだろうし、操縦士は日本語が判るはずがないのだから。

(……僕の7万円って何なんだろう……英二は喜んでるみたいだから良いのか?)

 それがこのような状態になっているので、不二は落ち込みの極致というわけだ。
 ちなみに言っておくが、ツアー最少催行人数が4名だということは、ちゃんとパンフレットに書いてあった。小さく、だが。 不二ならそんなところも逃さず、きちんと読んだはずなのに、ツパイに浮かれ、パンフレットの“世界で一番大切な人と見て欲しい”のフレーズに頭がいっぱいだったのだ。 つまりは、不二の落ち度だったりする。

「なぁ、不二。あの島って、無人島なんだろ?」
「あぁ……どうしたの、住んでみたくなった?」
「ううん。こういうとこはさ、やっぱ人が入っちゃいけないよなって思った」
「確かにね」
「そういえば、不二。二日酔い、大丈夫?ちょっとくらいマシになった?」

   隣の新婚カップルに聞こえないように、シート越しにこそこそっと体調を訪ねてくる英二の可愛さに、照れから不二は思わず口元を手で覆ったのだが、当然英二からは見えない。 別に何かが逆流しそうなわけではない。いや、実は先程までなかなかに吐き気がしていたのだが、もうそんなことは気のせいだったということにした。

「ありがとう。大丈夫だよ、英二が世話してくれたからね」

 と、答えたのを実はもう英二は新婚カップルと話し始めていて、聞いていないということに気が付いて呆然としたのだが。

 おかしい。今頃、このツパイの上空で英二と良い雰囲気になっていたはずなのに!
 再び頬杖をつきながら、眉間に皺を寄せ、青い瞳を険しくする不二。今、この男の頭の中はその事でいっぱいだ。 二日酔いの頭痛は頭痛薬が効いたのか、それともそんなものはショックに吹き飛んでしまったのかは定かでない。
 ツパイの伝説だけではない。タヒチにはまだロマンチックな話がある。
 『ティアレの花は右の耳に飾ると未婚、左だと既婚を示し、つぼみの状態で作った冠は愛する人へのプレゼントとして使う』とか、 昨日アクア・サファリで見たマンタに関しては『マンタを見ると幸せになれる』という話があるのに、語ることができない。 あまりにベタベタで、砂を吐きそうな台詞でも、不二は真顔で語る気満々だったのだ。ツパイ上空15分間に全てを賭ける気でいた。

「……ショック過ぎて吐きそうだ」

 普段、なかなか事に及ばせてもらえないが、旅行中ならバイトの心配もない、英二だって解放的な気分になってくれるはずだと期待していたのだ。 英二が「賑やかな方がいい」と言ったので、それに従って跡部とリョーマという同行者ができたが夜は別。 さぞかし情熱的な夜になるだろうと、初日は英二が入浴している間にタヒチの夜景写真を寂しく一人で撮り終えていたのに。
 情熱的な夜なんて一度も迎えないまま、本日3日目だ。
 初日、ヴィラに到着した時、英二の支度を急かさずに、ベッドにはしゃいでいる英二をそのまま沈めるべきだったのか。 その日の夜なんて、長旅の疲れが出て先に寝てしまっていた英二を、何もせずに抱き締めて眠るなんて可愛らしいことをせずに大人になれば良かったのか。 昨日だって、朝食より英二が頂きたいところだったのを素直に告白すればよかったのか。一体僕は何処で間違ったんだ!

(……違う。僕は何故呑みすぎたんだってことだ……)

 今、不二の落ち込みはタヒチの海より遥かに深い。
 20年間生きてきた中で、今朝一番絶望的な朝の迎え方をした不二は、項垂れるしかなかった。
 その姿をまた不思議そうに操縦士が見て、約5分後。ヘリは不二の計画を一つも実行させることないまま、質素なヘリポートへと帰還したのだった。