ロマンチックバカンス★ボラボラ

1日目:誘われて楽園。



『……イ航空ペパーテ行き15:55発77便にご搭乗のお客様は……』

 7月中旬の成田空港。
日本を代表する国際空港は今日も人に溢れ、賑わいを見せている。
フライトインフォメーションボードが忙しく動き、凛とした声のアナウンスが響く中を、 スーツ姿や季節らしく半袖姿の人々が大型キャリーケースを引き摺り、行き交う。 鉄の翼は轟音と共に地を飛び立ち、それぞれに壮大な空へと進路を取っていく。

 そんな場所に今、商店街の大抽選会のガラガラという運命の力(?)によって、普段の生活からは此処にいることが考えられない大学生たちがいる。

「空港とか高等部の修学旅行以来だなー……ゲートあっちだっけ?」
「俺、第1ターミナルしか使った事ないんで判りませんけど……こっちじゃない?」
「英二!越前も!ペパーテ行きは97番ゲートだからそっちじゃない!」

 チェックインカウンターで手続きと荷物預かりを終え、搭乗券を手に検査場で金属探知機を通過するなり、 直感という何とも当てにならないものだけを頼りに歩き始めたのが菊丸英二と越前リョーマだ。
 これから始まる旅に対して気持ちが逸るのか、勝手な憶測で本来行くべき方向も知らないまま歩こうとする 2人に向かって叫んだのは不二周助。
 不二はX線検査のコンベアから流れ戻ってきた手荷物を受け取り、貴重品をそれに仕舞い、 電源を切ったままの携帯を細身のジーンズのポケットに差し込むと、二人の元へ追いついた。

「97番ゲートはサテライトだから一旦2階に下りて、シャトルで移動。それと、走っちゃ駄目だよ」

 君たち、もう中学生じゃないんだから。確かに、白いビーチが僕らを呼んでるけどね?
 本当に呆れているのか定かではない不二に、英二とリョーマの気持が判らないことはない。 何と言ったって、この特賞を熱望していたのは不二だ。得体の知れない秘技まで使ったのだ、不二もこの旅行をとてもとても楽しみにしている。 色んな意味で……というのは、不二だけの秘密にしておくとして。 可愛い恋人と可愛い後輩が楽し気にしている様子を見ていれば、純粋に不二だって嬉しい。

「じゃ不二、あのエスカレーター降りたらいいの?」
「そう。……越前、忘れものはない?」
「ないっす」
「それじゃあ行こうか」

 3人は通過した検査場の目の前にあるエスカレーターを降りていく。
……先程から一帯に鳴り響いている、けたたましい電子音に気付いているのかは判らない。


――― ビーッ!


「……どうなってんだ」

 この音が鳴り始めて、早5分ほど。 後続の人々が、まるで犯罪者を見る野次馬のように電子音の元凶である金属探知機のゲート、そしてそこを塞いでいる 青年を覗き見ている。
 財布や携帯電話はまずX線検査機に出した。それでも鳴る金属探知機に、シルバーアクセサリーを外し、 ベルトのバックルが拙いのかとベルトを抜き、次には靴の鋲かと靴まで脱いだが全て電子音が鳴ること18回。

「他に何かお心辺りはございませんか?」

 そう尋ねられたのも18回。腹を立てるにも、項垂れるにも最早面倒。 検査官の持つ、ガットのないラケットのような携帯型金属探知機で、 全身隈なく探られ続け、これ以上はもう何もないだろう!と19回目の挑戦をした瞬間。


――― ビーッ!


「おいっ、壊れて……あ?あいつ等……!!」

 同行者3名―うち恋人1名含む―に完全に置いて行かれたことに気付いた跡部景吾は、 まだセキュリティチェックをクリアできずにいた。

「お客様、大変申し訳ございませんが……他にお心当たりは?」


 成田発、4人のバカンス満喫の旅が始まろうとしている。




 結局、跡部が金属探知機と検査官にサヨナラできたのはあれから更に3分経ってからのこと。
 他の3人はと言えば、搭乗ゲートで待っているどころか、ゲートを通過し、 搭乗手続きが始まった飛行機へ向かった後だった。
 跡部は指定した座席に向かったが、漸く追い着いた3人が繰り広げる光景は何かおかしい。

「あ。あとべーごめん!金属探知機通れてないって思ってなくって」
「え?この人セキュリティチェックで引っ掛かってたの?てっきりトイレだと思ってた」
「おチビ、それは酷いって。不二さっき言ってたじゃん」
「そうでしたっけ。……それより英二先輩、これゲームできますよ」

 会話もおかしいが、席順までもおかしかった。
 この航空機は座席配列が2−4−2席となっていて、4人で旅行するということで当然ながら中央ブロックの4席を指定したのだが。 今見れば、向こう側の通路から順にリョーマ、英二、不二となっていて、跡部に一番近いところに1つ空いているこれが跡部の席と思わしい。
 だが、この4人。確認の為に改めて解析すると、跡部とリョーマ、不二と英二という2組のカップルというつくり。
 そうであるにも関わらず、跡部のパートナーは隣どころか、一番端の反対側に座っているから変な光景だ。 リョーマは隣の先輩と、前の座席の後部に設置された12インチのパーソナルビデオモニターの説明書を読みながら、 ゲームがどうだのと騒いでいる。
 しかし、これに対して「どういうことだ」だの「替われ!」だの小さいことを言わないのが跡部である。 1つ空いた席に着くと、点灯するシートベルトサインに従って、シートベルトを装着した。
 跡部が面倒だと思ったのは、別のことだ。

「……そんなに大層なもの持ってるんだ?」

 くすっと笑いながら視線を遣すこともなく、機内案内を読んでいる不二が尋ねる。
 先程の英二の発言から判るように、不二は跡部が検査場で引っ掛かり続けていることを知っていた。 そして、何処か意味有り気な今の尋ね方からして、不二が跡部をだしにして遊んでいることがありありと判る。 跡部の憂鬱は、いちいち鬱陶しくなりそうな隣の席だった。
 ……但し、リョーマが情報を正しく理解していなかったのは不二の仕業ではないことは注釈しておく。

「……煙草を2箱突っ込んでたのが拙かっただけだ」
「あぁ、それか。銀紙が1箱分はセーフでも2箱だとアウトらしいね。この機会に禁煙を勧めるよ」
「てめぇにだけは言われたくねぇな」




 4人は一体何処へ向かっているのか。―――答えはフランス領ポリネシアはタヒチ・ボラボラ島。
 成田からタヒチの首都ペパーテへは直行便で11時間の長旅だ。直行便は機体デザイン・機内ともタヒチの海を連想させるコバルトブルーを基調としている。 商店街が与えてくれた幸運(?)によって、この飛行機に乗り、大学生の男4人はバカンスへ向かう。
 ……キャッチフレーズ「世界中のハネムーナーが憧れる楽園」へ。男、4人で。

 日本に暫しの別れを告げ、機体が水平飛行に入ると、タヒチアン・パンチというウェルカムドリンクが配られた。 フライトアテンダントの、鮮やかなピンクや黄色の長いワンピースというタヒチアンスタイルにテンションを上げていたのは英二だ。 しかし、何か話しかけられても中学の頃から苦手科目が英語だった英二には、両隣の英語達者たちの通訳が不可欠だったのだけれど。
 なかなか美味しい機内食にワインやシャンパンを少々頂くと、英二とリョーマはまた暫くゲームに熱中、 不二は機内チャンネルでタヒチ音楽を聞きながらガイドブック熟読、跡部は機内アメニティの耳栓とアイマスクをフル活用して、 早朝起床による睡眠不足解消をしていた。
 それぞれ思い思いに空の旅を満喫する4人を乗せて、飛行機はひたすら南を目指して飛んだ。


「Maeva!」


 成田を経って11時間、日本との時差−19時間。日付変更線を越え、タヒチ・ペパーテのファアア国際空港に到着したのは8:30だった。 タヒチ語とフラワーレイで歓迎を受け、タヒチの土地へ始めの一歩を着けた。空調の整った機内とは打って変わって、 空港には空調設備がないのか、壊れているのか暑さを感じる。まだ直接外気に触れたわけではないけれど、暑さは日本のそれとは違う。 空港の大きなガラス窓から見える景色は、椰子の木などが立ち並び、空港周辺だというのに日本のような高層建造物が見当たらず、 広い空から、強い太陽光が空港内に差し込んでいる。あちらこちらに見受けられる掲示物は英語かフランス語かタヒチ語。
 同じ航空機に乗っていた日本人がまだ周囲にたくさんいる状況では、あと一押しタヒチを強く感じられないが、 視覚は明らかに日本ではないことを伝えてきている。

「ホテルのチェックインは昼からだろ。移動する前に昼飯を済ましちまうのが賢明だろうな」
「そうだね。空港内だから飲食店もあるし……何かご希望は?」

 荷物預かりから引き取ったハードキャリーケースと、旅行案内書とガイドブックをそれぞれ片手に持った跡部(リョーマの大型バッグ付き)と不二が、 英二とリョーマに向かって尋ねると。

「和食」
「マック!だって世界で違うって言うじゃん」

「「…………」」

 何故、楽園の傍まで来て和食やファーストフードを食さねばならない!
 飛び出た即答に、こういう時には気が合う跡部と不二が、思わず顔を見合わせたのは言うまでもない。


 ペパーテからホテルのあるボラボラ島まではプロペラジェットで更に45分のフライトだ。
 あの後、昼食は結論から言うとファーストフードだった。空港内を見て回ったものの、小さな空港にはカフェテリアしか見当たらず、 大学生の男4人がカフェの軽食で満足に食事できるとも思えなかったので、結局ファーストフードということになったのだ。 日本との違いと言えば、サラダの量が多かったことと、ハンバーガーの肉厚があったことだろうか。
 機内食で量的に満足できなかったリョーマがその空腹を満たしているうちに、跡部と不二が両替所に行き、 4人は午後一番の便に乗りこんだ。
 プロペラジェットは配列が2−2席で、4人は左側に前後2人ずつに分かれて乗ることにした。 「Ia orana」はタヒチ語の挨拶だということや、ボラボラ島のボラボラとは「最初に生まれた」という意味らしいことを不二が語りながら、 飛行機は島へと向かってフライトを続けている。

「ボラボラ島を訪れる日本人は年間2万人らしいよ」
「へー、じゃあ俺らって2万分の4ってことじゃん!」
「……その9割が新婚旅行らしいけどね?」
「ってことは、俺たちは2万分の4且つ、その残りの1割ってことっすね」
「ははは……そ、そっか」
「当然だ。男同士で来るところじゃねぇのはさっきの飛行機で判ってただろ。だから俺は米……」

 の方が良かったんだ、こいつが馬鹿ほど食うからな!
 米10kgへの未練が捨てきれないらしい跡部が、窓側のリョーマの方へ視線を遣り、そう言葉を続けようとした時。窓の外を覗くリョーマの大きな目が段々と見開かれて、 跡部は一体何だと思わず怪訝な顔になった。

「もしかして……おチビ!あれ、見える!?」
「……何、これ」

 リョーマの真後ろの席から、英二の弾けるような声が飛んだ。 跡部はリョーマが覗く窓を、リョーマの頭越しに隙間から外の様子をちらり窺う。
 すると、その景色が視界に飛び込んだ。
 果てしなく広がるブルー。空と海との境目が溶け合っているという表現は、このことを言うのだろう。 南の太陽の日差しが降り注いで煌くコバルトブルーの海に、輪の形に、まるで中心に浮かぶオテマヌ山を包むかのように連なり浮かぶ島々がそこにある。 そのマカライトグリーンの島々を、煙るように囲むラグーンがセルリアンブルーに輝く。 そこに白い砂浜のハイライトが加わると、光り輝く環は「南太平洋の真珠」と呼ばれるに相応しい理由をその姿ではっきりと示している。
 英二に急かされて、不二は天空海闊、風光明媚な窓の外に向かってシャッターを切った。

 4人は、間違いなく最高の楽園タヒチに来ていた。
 ……世界中のハネムーナー……の、憧れの……。




 無事ボラボラ空港に到着し、タラップを降りると、熱気とラグーンからの潮風が4人を包んだ。 周囲を森に囲まれ、滑走路だけのような簡素な空港は、アスファルトが南国の日差しを照り返して眩しいほどだ。 異国へ来たのだという実感が、肌を通して一気に湧き上がる。 そして、空港ビルだという茅葺の低層建造物を目指して、キャリーケースを引き摺って滑走路を歩いた。
 建物に入ると、今日何回目かの、タヒチの国花だというラティアでできたフラワーレイでの歓迎を受ける。 今度こそ、空の移動は終わりだ。

「やーっと着いたああぁ!……座り過ぎてお尻痛い」
「やっぱそれなりに暑いっすね」
「そうだね。7月の平均気温が27℃ほどのはずなんだけど……甘く見てたな、南国には違いない」

 そして、フロントで待機していたホテルのスタッフに案内されて、空港を出てすぐの小さな港に停泊していた専用小型クルーザーに乗り込んだ。 ホテルまで約15分の短い船旅になる。4人の他に今日案内の宿泊客はいないのか、4人の貸切だ。
 クルーザーは見蕩れるほど透明度の高いコバルトブルーのラグーンを進む。 船首が海を切る度に上がる白い水飛沫の音と、クルーザーのモーター音、それから波の音と潮風の匂い。 辺りを見渡せば、つい先程まで上空から見ていた景色がそこにある。ひたすら青い海と、豊かな自然を示すような緑、島の中心に聳え立つオテマヌ山が見えるだけだ。

「ここって本当に地球!?」

 跳ねた髪を風に揺らしながら笑って尋ねた英二に、不二はただ笑って返すと、 ボートを操縦しているホテルスタッフが「男性のご友人同士でいらっしゃるお客様をご案内するのは久しぶりです」と楽しげに声をかけてきた。 それに対して不二が「とても美しいところですね。来て良かったです。暫くお世話になります」と返す英語のやりとりを見て、 英二は小首を傾げて不思議そうにしていたけれど、跡部とリョーマは自分達が熱烈に歓迎された理由に納得していた。
 「男同士でも来る奴いるんじゃん」とリョーマが小さく呟いたところで、ボートはホテルに到着した。


 石造りの床に、2体の守り神の置かれた茅葺のエントランスを抜けるとフロントだ。 エントランスを見ただけでも、無駄な飾りのない、けれどリゾート地、そして南国へ来たのだと感じる洗練された造りに 滲み出るラグジュアリー感を感じる。世界のセレブも続々と訪れるらしいホテルだけある。
 このホテルには水上ヴィラだけでなく、コテージも用意されていて、そちらの方がヴィラに比べて安く泊まれるのだが、 4人が宿泊するのは水上ヴィラ。「南太平洋の真珠」の煌く美しいタヒチの海に浮かび、一面コバルトブルーに囲まれた贅沢な一室。
 ……一体どういう経緯でこうなったのかは全くもって謎だが、 それを賞品にしたのだから、青春台商店街はとても太っ腹だ。日本に帰ったら潰れているなんて事態になっていないことを切に願う。
 商店街もまさか大学生の男4人が当てるとは思ってもいなかっただろうに。

「取り敢えずチェックインだ。時間は無駄にするんじゃねぇ」
「最初は海で」
「……越前、君元気だね。ほら跡部。越前だって嬉しそうじゃないか。だから僕がタヒ……」
「んじゃあ、ヴィラに荷物置いて、先に準備出来たほうが呼びに行くってことでいいじゃん」


 そうと決まれば、さぁ急げ。
 長時間のフライトにも関わらず、若者4人は何とも元気だ。それぞれ本命で欲しかったものを引き換えにした―1名除く―分を楽しまなければと。
 来たからには最後の楽園を満喫し尽くすべく、早速チェックインの手続きを終えた。


「えーいーじ?」

 水着にタオル、日焼け止めとサンダル。
 ハードキャリーケースの中から必要な荷物を手早く出し、海に出る支度をする不二は、英二に呼びかける。 「ほら、英二も早く」。そう何度か急かしているのだが、英二からはっきりとした返事は返って来ない。
 これから3泊することになる茅葺の水上ヴィラは、Y字型に幾つものヴィラがコバルトブルーの海に立ち並ぶうちの1つ。 ベッドルーム、簡易キッチン、テラスにガゼボと直接海へ飛び込めるデッキがあり、リビングルームには質の良い一人掛けソファ1台と2人掛けソファ1台、 加えて別に木製の椅子2脚とテーブルまである。そうそう泊まることができるグレードのホテルではないし、 長旅だったこともあって、英二のゆっくりしたい気持ちも不二だって判らないではない。
 けれど、ここで今の英二の気分を尊重してしまうと、きっと後悔するのは自分よりも英二の方だと、 今までの英二との付き合いから感じる不二は、自分に対しても英二に対しても心を鬼にして英二に支度を促した。
 ……その選択を不二が後悔するかどうかは今はまだ誰にも判らない。

「だってお約束じゃん。やってみたかったんだよー。見ろよ不二!枕が1、2……6個もある!あれ……これ何枕?」

 ヴィラに入るなり、ベッドルームの中央に鎮座するキングサイズベッドへ迷わずダイブした英二は、 その軽い身体を何度か跳ねさせると、円柱状の枕を手に首を傾げている。

「あぁ、それ?……まぁ後でいいじゃない。今はとにかく支度して。あの二人、絶対早い」
「えー!俺ちょっと部屋見たかったのに」
「ディナーが終わって戻ったらゆっくり散策すればいいだろ?……ってほら来た」


――― ピンポーン


「……出てくんの?」
「聞くな。もし出てこなかったら、日本に帰って米10kg請求してやる」

 リゾートの敷地から幅1mほどの桟橋が伸びた先端に向かい合っているヴィラのインターフォンをリョーマが押すと、 扉の向こう側から不二の「ごめん、ちょっと待って!」という声が聞こえてきた。 と同時に跡部とリョーマは一瞬顔を見合わせると、それぞれ桟橋の手摺に身体を預けて凭れかかった。

「不二先輩の“ちょっと”が1時間じゃないといいけど。あー、暑」

 日焼け止めをしっかりと塗った均整のとれた身体を、あたたかい南風に晒せば水着一枚でも快適。 すっかり海に行く準備が整った格好で、リョーマは足元に広がる透明度の高いセルリアンブルーの海を眺めながら呟く。

「もしかして、そっちの方が男として妥当だったりして」
「あれを基準にされて堪るか」
「そうだよね、アンタ自信ないもんね」
「あぁ?何が言いたいのかは知らねぇが、あんまりふざけたことばっか言ってんなよ?」

 元々、米にまだ未練がある上、時間にも几帳面な跡部の機嫌はあまりよろしくない。 その端整な顔に苛立ちの表情を浮かべると、掴みかからん勢いでリョーマに顔を近付け、眼光を鋭くする。 それをくすっと笑うリョーマ。2人の間の短い距離を、また南風が吹きぬけた……瞬間。

――― ガチャ

「おチビもあとベーもごめん、お待た……せ?」

 4人、暫し沈黙。英二の大きな目が、跡部とリョーマを順番にきょろきょろと見て。
……その後、不二が楽しそうににっこりと。

「……君たち、開放感満点でもヤるなら部屋でしてくれる?」




 ホテルのビーチは、白い砂浜にデイベッド2組とパラソル1本の組み合わせが数セット設置されている。 4人の他に誰もいないビーチはまるでプライベートビーチのようだ。 絵に描いたように青い海から、波が打ち寄せては引いて、さぁ飛び込んで来いと言わんばかりに誘ってくる。
 気分はセレブ。この数日間は、毎日のスーパーのチラシチェックも、節水・節電も、バイクのガソリン代だって気にしなくていいのだ。せこい日常の一切が海の彼方。楽園、最高。
 ざぶんと海に潜って、勢いよく頭を水面に出した英二は、すっかりスタイリングの崩れた髪で笑顔になる。

「うーわー……すっごいとこ来ちゃったなぁ」
「マジ凄いっすね。誰かさんに米に替えられなくて良かった」
「……ねぇ、その誰かさんさ。米を逃した自棄酒ならぬ、自棄泳ぎなのかな?あれ」

 同じように海面に頭だけを出したリョーマと英二が、膝丈まで海に浸かっている不二の指差す方向へと顔を向けると、 沖に向かって一人黙々とクロールで泳ぎまくっている跡部がいたとかいないとか。
 取り敢えず、跡部が猛然と泳ぎ続けていたのは米の恨みかどうかは定かではないものの、 跡部の自棄酒ならぬ自棄泳ぎ疑惑を切欠に、4人は競泳やビーチバレーに熱くなることになった。 長年のテニスで培った体力と肉体がまさかこんなところで活きることになろうとは。 人生、何処で何が役立つかわからない。




 その後、12時間の長旅の後、午後いっぱいをビーチ満喫に使うという何とも体力任せの弾丸メニューを強行した4人は、 流石の空腹にディナーへレストランに向かった。
 レストランは大きな茅葺屋根のオープンテラスのある建物だ。各テーブルに、天井から低めに吊るされた淡いオレンジ色の照明と、テーブルの上の柔らかく灯るキャンドルで 演出されていて、屋根の巧みに組み合わされた木材に濃い陰影を映し出している。 店内に置かれた熱帯性植物や、色とりどりの花の装飾が南国情緒を更に漂わせた。
 南国の夕暮れを見ながら、有名シェフが作るディナーを楽しむ新婚カップルが今まで何組も……しかし何度も言うが、残念ながら今ここにいるのは大学生(普段は節約生活)の男4人だ。

「……ねぇ、跡部。越前っていつもこんなに食べるの……?」
「今更だ」

 幸運の旅行を祝して乾杯をした後。
 ツアーの特典として、旅行中の毎朝夕食が付いてくる。つまり、タダ。それを知った途端に、リョーマのメニュー注文の勢いが変わった。 呼び止めたバトラーに、それは流暢な英語で次々とオーダーをする。 シーフードマリネ、Tボーンステーキ、アサリとシーフードのパスタ、特大チーズバーガー、それから山盛りのデザート等々。 どれもそれなりに量があり、日本なら2人前の扱いでも有り得ると思えるにも関わらず、リョーマは躊躇しなかった。 確かに、今日一日よく動き、空腹なのは他の3人も同じだが、それを差し引いてもこの食欲は一体。
 とにかく食欲!といった具合に料理へ手を付ける後輩を前に、不二は思わずナイフとフォークを握ったまま呆然となる。 跡部はその隣で至って冷静に、白ワインに口を付けている。

「おチビ、これ半分しよ」
「俺1人前で良いんで、不二先輩と半分して下さいよ。注文くらいはしてあげますけど」
「え……おチビまだそんなに食べれんの?」
「余裕」
「お前、それでよく太らないよなぁ。おチビ、胃下垂?」
「英二先輩だって細いじゃないすか。つか、先輩太るの?」
「そりゃちょっとくらい増えることもあるって」
「食べる時にそんな事考えてたら食事不味くなりますよ?後で絞れば良いだけの話でしょ。すぐじゃん」

 何だ?この色気のない会話は……!これが最高のリゾート地でする会話か……?
 がくっと項垂れて、わなわなと肩を震わせる不二は、思わず笑顔が引き攣る。 折角宛がわれた人気のテラス席なのに、オレンジからコバルト・ヴァイオレットへのグラデーションに染まる空と海の優美なタヒチの夕暮れが台無しだ。 それこそ、新婚カップルなら甘い囁きのひとつやふたつ……それが、何が嬉しくて食欲の話を聞かなくてはならないのか。 いや、4人で食事しているのだからロマンチックな展開なんて不二だって期待していない。 この絶景に似つかわしくない話題に落ち込んだだけだ。 ……不二は明日に賭けようと、明日の夕暮れ時も晴天であることを静かに祈るしかなかった。
 そこで隣の跡部がすっと右手を挙げたことに気付く。

「……君もまだ食べるの!?」
「特典内なら話は別だ。あっちに戻ったら、こいつの食費でほとんど消えちまうからな」

 美しい身のこなしでさっと近付いてきたバトラーに、跡部がこれまた流暢な英語でズッキーニのマリネの追加注文したのを見て、 不二もサラダを追加で頼んだ。




 ディナーを終える頃には辺りはすっかり宵闇の中。 レストランを出ると、ヴィラへと続く桟橋は足元をライトアップして海に浮かび上がり、色気のないシーンを繰り広げた4人にも等しく、 ロマンチックな夜を演出してくれていた。
 南国のアルコールを楽しみたいのも山々だが、流石に疲労も溜ってきた今晩は、大人しく引き上げることにする。


「それじゃあおやすみ」


 不二はヴィラに入り照明を点けると、ベッドの向かい、テラスへの一面の大きな窓ガラスを開けて、カーテンを引いた。 「空調設備は整っていますが、この時期の朝晩はとても涼しいので不要ですよ」とバトラーが言っていたからだ。 折角の機会だ、極力現地を感じられる過ごし方をしたい。
 バトラーの言う通り、海から涼しく柔らかい潮風が流れ込んでくる。不二の亜麻色の髪が静かに靡く。
 室内は、落ち着いたオレンジ色の、明る過ぎず、全てを照らしてしまわずに陰影をつくる照明が、 暗くなった静かな海に映えて、映画にでも出てきそうな雰囲気だ。
 そんな室内で英二はというと、ヴィラに入ってすぐのリビングルームに設置されたソファに身を預けていた。

「あーもーお腹いっぱい。美味しかったもんなー、料理の用意も後片付けもしなくていいから楽だし」
「本当英二よく食べたよね。……あ。お風呂先に入るなら入ってくれて構わないけど……どうする?」
「あ、そうじゃん。部屋の中まだちゃんと見てない!……うわっ、ジャグジーある!」

 質問の答えは一体何処へやったのか。英二は部屋を見て周っていないことを思い出すと、ソファから立ち上がって、 部屋の散策を始めてしまった。テラスを覗いて、立派なジャグジーに驚いている。
 仕方なく、そのまま冷蔵庫などを覗き始めた英二をそのままに、不二はセカンドバッグを漁ってピアスを取り出した。 いつも左耳にだけ付けているそれだが、今日は金属探知機の度に着け外ししなければいけないかもしれないのが面倒で、 鞄に仕舞っていたのだ。タヒチの海のような青いそれを手に取ると、明日の朝着けようと洗面台に向かう。
 すると、ベッド両サイドに付いた2つの扉の奥、つまりはベッドと背中合わせにあるバスルームを先に発見していた英二がいた。 その英二がバスタブの隣、横1.5mほどで奥行き2mほど、20cmほどの段差で仕切られたタイル張りのエリアを、不思議そうな顔で覗き込んでいる。

「……シャワーブースだね。ほら、壁と天井にシャワーが付いてる」
「え、ここ!?壁は!?」
「開放感の成せる業……ってことじゃないかな。ある意味、貴重な経験」

 ガラスも壁もないのだから、当然扉もない。一体どれだけ開放的なんだ、と言いたげに英二の表情が語る。 そんな英二を見て、不二は思わず笑ってしまう。

「……不二、覗くなよ」
「失敬な」

 同性、しかも付き合っていて、ましてや同棲までして3年なのに今更じゃないか!
不二は思わず文句を言いたくなるが、英二が「覗くな」と言うのもいつものことなので、 自分はそんなはしたないことはしないという紳士さを示す為に意地で返事する。
 じとっとした目で不二を見ていた英二は、バスタブ、シャワーブースと対面するように設置された洗面台に興味を移した。 洗面台は贅沢にダブルボウルで、当然のようにそれぞれに大きな鏡が付いている。 上品なつくりの洗面台を繁々と眺めていると、ダブルボウルの間の台、そしてそこにも張られている鏡……の中央に走る線。 よく見れば、真ん中には引き戸に付くような取っ手が。

「あれ?これ、何だろ」


――― ガラッ
その引き戸に対する反応はそれぞれだ。



「……なんだ、これは」
「……判んない」

 そこを開けたのは跡部だった。
 持参した荷物を自分達の使い勝手の良いように解くと、リョーマ、跡部の順で2人はシャワーを済ませていた。 部屋に備え付けのバスローブに身を包んだ跡部は、大理石と黒を基調にした洗面台に立つと、 ダブルボウルの間の台に乗ったシェル素材のティッシュケースとトレーに目が向いた。
 すると、その台の前の鏡に真っ直ぐ走る溝と取っ手に気が付いた。一体何の引き戸かと開けてみると、 計6つの枕越しに、同じくバスローブ姿でベッドに横たわり、判るはずもないタヒチのテレビ番組のチャンネルを ころころリモコンで回しているリョーマが見えたのだ。

「どうしてベッドの裏の壁と洗面の鏡が繋がってるわけ?」
「さぁな。それより、濡れたままの髪でベッドに上がるんじゃねぇ!もうそこ濡れてるだろうが!」
「ねぇ、それよりさ、ここの音響凄くいいんだよね。うちにも買ってよ」

 「どうして」と尋ねたり「買って」と強請るのに、リョーマはテレビの方を見たまま。 まだ濡れているリョーマの髪の先から、水滴が一滴また落ちてベッドに吸い込まれていくのを見て、 跡部は小さく溜め息を吐くと使用方法不明のその鏡引き戸を閉めた。

「へぇ、結構良い部屋じゃん」

 当たり前だ、米10kg何袋分だと思ってやがる!
昼間、ホテルに到着してヴィラに入るなりリョーマが言ったことに対しての跡部の反応だった。
 ヴィラは177uだという。普段2人が暮らしている部屋が37uであることを考えると、実に約5倍。 旅行にしてはこの部屋が広すぎるのか、それとも37uでも二人暮らしをしているのがおかしいのかは、 もうこの際考えないことにする。
 確かにこのホテルはフロントやバトラーの対応は丁寧で、リゾート内も広く充実していて、 ヴィラもラグジュアリー感に満ちた豪勢なホテルだ。世界のセレブやハネムーナーが次々と訪れるのも納得できる。
 しかし、跡部には1つ我慢ならないことがある。

「どうにかならねぇのか!」

 壁もガラスもない開放的なシャワーブースは、どう頑張っても洗面台の方まで床が濡れてしまうことへの不満を言っているのだ。 几帳面な跡部にはこれが許せないが、こんな夜になって清掃が来るはずもなし、バトラーも呼べない。 けれど、朝まで放置しておくことは跡部にはできない。
 結局、洗面台の手前に掛かっているタオルを引っ手繰るように掴み、跡部は床を拭いて。
 仕事を終えると冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉の奥へ流し込み、ベッドルームに一歩入ったところで跡部は足が止まった。

 テレビからタヒチ語が流れる中、ベッドの上で、まだ乾ききらない髪のままのリョーマが眠っている。

 跡部は小さく溜め息を吐くと、テレビを消し、リョーマに布団を掛けた後、テラスで一人煙草に火を点けた。 すっかり暗くなった海に、淡い灯が浮かび上がる。 波の音と優しい風だけが感じられる中、綺羅星光る夜空に向かって紫煙を吐いた。
 そこに、普段とやっていることと同じ気がすることに対しての溜め息が混ざっていたかは定かではない。




 日本の地と生活を離れて1日目。
 南の楽園の夜は更ける―――。