聖戦≒ふたり暮らし



人生山あり、谷あり。

東京都内某賃貸マンションの一室。
深夜12時を回った時間に、そんな渋い言葉を齢20にして痛感している大学生がいる。 いや、正しく言い表すならば今日この時に初めてではなくて、かれこれ丸2年間だ。
彼は色素の薄い髪に綺麗な顔立ちの青年で、何処となく品が漂っている。 まぁ、そこそこ育ちは良いです。そんな雰囲気を纏っている彼が、夜中に人生の難しさを感じ入っているこの状況。 彼―――不二はかれこれ20分ほど、あるものと睨み合いを続けている。

『ティッシュペーパー5個組 お一人様1個限り先着100名様』

スーパーのフルカラー刷チラシ。それが不二の宿敵となって立ちはだかっている。
ある時は味方、またある時は悩ましい宿敵。
そんなよくあるヒーローものの展開なんてお呼びではないのだが、残念ながらスーパーのチラシという怪物はそういう存在になっている。 1枚ならいい。そういう時は大抵味方だ。しかし、今回の問題は久々に2枚相手ということだ。これは敵と見なければいけない。 敵が仕掛けてくる攻撃は恐ろしく魅惑的だが、冷静にならなければ大打撃を受けてしまうという危険を孕んでいる。
態とらしいほどに大きく、赤色のフォントで書かれた文字が襲い掛かってきたところで、不二は溜め息を吐いた。

と、同時に不二とチラシ2枚の戦いは一時休戦となった。

「なーに難しい顔してんの、ふーじ」

にぱっ、と。
頭から被ったタオルで髪を拭きながら、この部屋のもう1人の住人―――英二が不二を覗き込んだからだ。
近所のリサイクルショップで買った1980円のローテーブル前に座り込んで、難しい顔をしている不二に笑ってしまう。 眉間に皺の寄ったその表情が、同じく中学からの付き合いになる何処かの誰かを連想してしまったから、 というのは英二だけの秘密である。

「あぁ…上がってたんだ?ごめんね、気付かなくて。お茶漬けすぐ用意するよ」
「サンキュー…って何これ!先着もんが2件被ってんじゃん!」

風呂上り特有の石鹸の匂いを漂わせる英二が座るのと交代に、不二はキッチンへと立った。
今度は英二がチラシ2枚と応戦する。この薄っぺらい敵は侮り難いのだ。 電気代をこそこそとケチって電気をつけずにキッチンにいた不二も、片手にくま柄お茶碗、片手に赤い箸を持って苦笑いする。

「そうなんだよ。ティッシュとキッチンペーパー、どっちに行くべきか迷ってるんだよね」
「近かったら両方頑張れるけどココ遠いもんなぁ。…じゃ俺ティッシュ行って来よっか?」

いっただきまーす、と英二は不二が用意したお茶漬けに早速手を付けながら作戦を練る。
小さいローテーブルを目の前に、隣でざっざと美味しそうにお茶漬けを食べる英二を不二は盗み見た。
大学入学と同時に一緒に暮らし始めて早2年。
4.5帖のキッチンと10.5帖の洋室、の部屋に二人暮らし。
ベランダ際のセミダブルのベッドがやたらと目立つ。 あとはパソコンとローテーブルとチェストと本棚とテレビが家具らしい家具。言ってしまえば、狭い。 喧嘩してもこの部屋しかない。言ってしまえば、自由か不自由かというと不自由だ。
それでもこの暮らしを捨てる気は毛頭ない。

……の、だけれど。ただ、まぁ少々欲を言うとなると。
ちょこちょことした敵がいたりするのである。




「ねぇ、英二。パチンコ屋のバイト辞めない?」

バイトから帰宅した英二の夜食も、チラシ2枚との激戦も終了し、洗い物も済ませたところで不二は切り出した。 英二はと言えば、歯磨きを終えた時点でもう布団に包まっている。
それでも、不二が闘わなければいけないものはまだあるのだ。寧ろ、ここからが本戦。
―――戦場はセミダブルベッド。

「えーなんでだよ。時給いいもん…ってかまたその話ぃ?」
「そうだけど。僕が頑張って働くし、他のバイトに変えたら?」
「だーめ。今だって余裕ないの不二だって判ってんじゃん。パチンコ屋、時給いいもん」

それでなくとも、不二と同じだけ週4日バイトに入ると言ったのに、不二に週3日と抑えられているのでこれ以上は譲れない。 その週3日というのも、この話し合いを重ねて漸くお互い譲歩した結果だ。 もうこの2年で何度目になるか判らない話に、英二は眠い目を擦る。20歳の割りにまだ幼さの残る仕草で。
ベッドに滑り込むと不二はその手を取って、指先にちゅっと口付けた。
本日、先手必勝作戦。

「…煙草嫌いだって言って僕に止めさせたの、誰だっけ?パチンコ屋なんて煙草がセットみたいなものじゃない」
「俺ですぅー。そりゃタバコ嫌いだけど…不二が吸ってんのがヤなだけだし。
 とーにーかーく!時給いいから辞めない!」

ばちっ!
しかし、この程度の雰囲気で呑まれる英二ではない。不二の額に、デコピンが1発クリティカルヒット。 これが案外威力があったりする。不覚にも少々唸ってしまった不二は、額を押さえながら反省した。
―――流石にもうちょっと色気のある会話じゃないと不味かったか。

「本当、英二って意外に強情だよね」
「これはしょうがないじゃん!学生2人暮らしなんだもん、2人で暮らそうと思ったら文句言えないってのー。  不二はなんでそんなに辞めさせたがるんだよ」
「英二しんどそうだから。毎日じゃないにしろ、部活もあるのにさ」
「俺まだ若いからだいじょーぶ!」
「重いドル箱何箱も抱えてホール内走り回って…って随分な重労働だってことくらい僕だって判る」
「そーんなに大変じゃないって。不二の想像だろぉ?大丈夫だから不二は心配しないでよ」

デコピン恐るべし。手を外した不二の額が赤い。
が、それを気にするでもなくパチンコ屋を辞めさせるのに必死な不二を見ていると、 何だか不二が可哀想な気がしたり、変に面白かったりで、英二は赤くなった不二の額を擦りながら笑う。
半分寝かけている英二の緩い笑顔に危うく絆されてしまうところだったが、不二もここで引き下がるわけにはいかない。 不二には死活問題級の大問題なのである。これは、聖戦だ。

「違うね。バイトから帰った時はいつもぐったりしてるよ、英二」
「……」

急に手首を強く掴んで、真剣な顔をして見せる。
すると、多少心当たりがあると、演技の下手な英二は大抵答えに詰まる。
訴えるならこのタイミングを逃して他はない。不二はここ一番の真剣な目をして迫った。

「っていうかさ、ヤれないじゃない」

暫し、沈黙。

またそれかよ!信じらんない。
何の説明もいらないほど判りやすい視線が不二に突き刺さる。視線だけの大ブーイング。
けれど、もう何度となく見ている英二の呆れた顔に、不二も怯んだり負い目を感じることはない。 寧ろ堂々と言い放つ。もう一度言うが、不二にとっては曖昧にし難い大問題なことなのである。

『ただーいまー…』

ぐったり。そんな表現がぴたりと嵌る様子で英二はいつもこの家に帰ってくる。
英二のバイトは近所のパチンコ屋のホールだ。 昼間は大学に通っているということと、元々時給のいいパチンコ屋のバイトは夜間は更に時給が上がるということがあり、 週3日深夜12時までのシフトに入っている。言うまでもなく、バイトの日はくたくたな英二だ。 風呂に入ってから、軽く食事した後はベッドでご就寝である。もちろん、大人な運動は無しで。

―――…あれ…何かおかしくない?

不二としては英二との2人暮らしを、最高にビューティフォーでスウィートなたまに、たまににゃんにゃんな展開を挟んだ 愛に溢れたワンダフォーライフを思い描いていたわけである。
確かに、学生2人で親の助けもほとんど借りずに暮らすということの厳しさを想定しなかったわけではない。 が、どうやら期待と妄想と妄想に負けて夢見すぎていたようで。
現実から少々速度超過を起していたらしい。大事故だ。

―――僕の最高にビューティフォーでスウィートでたまに、たまににゃんにゃんな展開ありな愛に溢れたワンダフォーライフは!?

たまに、なんて控えめに言ってみたのが駄目だったのか。
人間謙虚がいいらしいのに、こういう時は己の本能の赴くまま正直に言った方がいいのか。
今の生活だってワンダフォーライフには違いない。幸せかと訊かれれば間違いなく幸せだと答える。

でも僕は「たまに」にゃんにゃんなんて耐えられない!!
『ティッシュペーパー5個組 お一人様1個限り!』が何だって言うんだ…!

「重要な問題だよ!一緒に暮らしてるのに、全然英二と……」

しかし、残念ながらこういう時の展開は決まっている。

「……寝てる、ってね」

甘い生活を送る為に2人暮らし、その2人暮らしを支える為にバイトは不可欠、しかしそのバイトに阻まれる理想。 学生2人で暮らすというのは、何かと大変なのである。

色んなものと闘いながら、不二と英二、只今ふたり暮らし歴2年。



(2008/08/01)