ロマンチックバカンス★ボラボラ

2日目 : さめない夜ゆえ。



 何が嬉しくて、恋人の片腕を担いで引き摺らなければいけないのやら。
“世界中のハネムーナーが憧れる楽園”は、今、英二にとって楽園でも何でもない。

「あははははは!……ははっ、……うっ」
「え、ちょっ!不二?大丈夫?」

 背中を摩ってやると、不二は黙って2回頷いた。
 本当に英二は先程から何回思ったかしれないが、何が可笑しくて笑っているのか、不二は大笑いをし続けた。 一番最初の出逢いから9年。同棲を始めて3年。不二がここまで酔ったところは見たことがない。まさか笑い上戸だったとは。英二も吃驚だ。
 タヒチが余程気に入ったのか、不二が今朝もとても上機嫌だったことを思い出す。 しかもアルコールに強くて、ほどほどに酒が好きな不二だ、本場のトロピカルドリンクの美味しさに酒が進んだのだろう。でもまさか、ここまでとは。 どんなに楽しい場で、酒が進む席でも自分の限界や加減を知っている不二が。
 跡部とリョーマのヴィラから自分たちのヴィラまで不二を引き摺り戻った英二は、とてつもなく広いキングサイズベッドに何とか不二を転がした。 その不二はというとされるがままに転がり、仰向けになって目を閉じて、口元はにこにこと嬉しそうだ。

「もー……不二、調子乗って飲みすぎ。加減しろっての」
「……んー?そんなにさー、呑んでないよ?英二とのセックスの回数の方が多いだろ」

 何の話だ、何の!
 英二はこの目の前の、今はただの“呑んだくれ”としか言いようのない男に思わず絶句した。一体どの口がそんなことを言うのか。 ……馬鹿ほどカクテルを口にしたのと同じその口は、どうやら今日は遠慮と加減というものを知らないらしい。呑んだくれの「呑んでない」ほど当てにならないものはない。
 仰向けになって、長い手足もベッドに放り投げたまま、指先一本、閉じた瞼の長い睫毛一本すらぴくりとも動かさずに、 形の良い唇だけが笑みを湛えながらそんなことをさらっと言うのだ。しかも、先程までとは違って、逆にいつもより低い声で。 多分、眠気が襲ってきているのだろう。

「なっ……な、何で今日こんなに飲んだんだよー、おチビ引いてたぞ、バカ」
「ふふ、英二見てたらお酒が進んじゃったんだよ」

 そうだ。大体、跡部とリョーマの部屋で呑み直しを始めた頃から、妙に下ネタが多い。それが性質が悪い。単なる笑い上戸なら可愛かったものを。 昔からずっと女子の憧れという位置だった綺麗な男の不二が、呑んだくれに変身するとまさか下ネタ男になるなんて誰が思うか。英二にだって9年目の真実だ。
 6年前のまだ付き合い始めの頃の14の不二を、可愛いもんだったよなーと思い出しながら英二は玄関の鍵を閉めて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。 もちろん、ベッドで転がる酔っ払いの為に。

「ひとを勝手に酒の肴にするなっての。……ほら、水飲んで」
「本当だよ。君、信じてないね……だって綺麗でさー」
「はいはい、お前が次々飲んでたトロピカルカクテルは全部綺麗でした」

 上半身を起して不二に何とか水を飲ませると、英二は着替えをさせなければいけないことに気が付いた。 ベッドサイドにミネラルウォーターのペットボトルを置くと、ついでにスタンドライトを点けながら。
 一旦もう一度不二をベッドに寝かせると、大きなベッドから跳ねるように降りて、バスルームに新しく取り替えられたバスローブを取りに行く。 戻ってくるときに、隣のリビングなど使っていない照明を消して廻ったのは、日本での節約生活で身に染みこんだ悲しい習性だ。
 ベッドに戻れば、やはり不二は先程と全く同じ状態で目を閉じている。寝てしまったのかと思ったが、違った。

「こーんな楽園みたいなところにあるホテルのさ、このオレンジ色の照明にさー、照らされてる英二ね……この世のものとは思えないってこのことかなぁ。 艶かしいったらないね、僕、勃つかと思った」
「……不二、もう今シャワーいいから寝ろ。朝浴びたらいいからさ。取り敢えず着替えだけして」

 あー、これは本当に酷い。
 2人きりになってから加速した露骨な物言いに、思わず乾いた笑いと溜め息が出る。 とにかくこのエロ男を早く寝かせて黙らせるしかない。英二は決心する。
 ベッドに上がると、不二が着ている半袖のTシャツの端をがしっと掴んで、半ば無理矢理、引っ手繰るように脱がしに掛かった。 こんなに色気なく不二の服を脱がすのは初めてかもしれなかったことすら、今の英二にはどうだっていい。 色気もクソも言っていられない。多少手荒でも、とにかく着替えさせることだけが目的だ。
 不二は相変わらずされるがまま。ベッドの上で万歳をした格好でにこにこしている。吐きそうにまでなっていたくせに、どうしてそんなにご機嫌そうなのやら。

「何……?英二が脱がしてくれるんだ?シていーい?抱きたい……抱かせて」
「ダメ!つーかお前酒臭い」

 次はボトムだと、ベルトを抜いて、ジーンズのカバードボタンを外して脱がしに掛かった途端、不二がまたもや。 きっといつもの不二なら、そう言う前に体が動いている。そういう男だというのは、英二も長いお付き合いで恥ずかしいほど承知の事実。 それが馬鹿みたいにへらへら笑ったまま転がって動かないのだから、余程酔っている。
 ジーンズを脱がしてしまうと、下着をどうするか英二は暫く悩んで、結局放っておいた。 脱がせるのが恥ずかしかったのか、面倒だったのか……はたまた、「抱かせろ」だの言ったくせに熱くもなっていない呑み過ぎの証に余計に腹が立ったのか。 英二のみぞ知る。

「それとねー、英二」

 ぐだぐだに酔い始めてから、語尾に「ね」と「さー」がやたらと多くなった不二。ちなみにパンツ一丁。 酔いが顔には出ない性質なのか、顔は赤くないものの、見れば首から鎖骨の辺りにかけて若干赤い。
 英二はそんな不二にバスローブを着せながら返事をする。

「……はーい?……違う、右腕通すのここ!」
「その服ね、やらしい」
「へ?これ?これ家でも着てんじゃん、今更何だよ」

 襟刳りの広いTシャツに、青のカラーパンツ。英二は思わず自分の服を確かめたが、一体どの辺りが不二の言う“やらしい”なのかが判らない。
 ただ、今の不二の言う事は碌でもないので、気にせずバスローブの紐を腰の辺りで結ぶと、枕の位置まで体を引っ張り上げてやる。 すると柔らかい枕へさらりと流れた不二の亜麻色の髪から、ターコイズブルーのピアスが覗いた。 朝起きて不二が怪我をしていると怖い。シーツが血塗れなんてホラーは遠慮する。英二は不二の左耳のそれを外そうと、身を屈めた……のを見計らったかのように不二がくすりと笑った。

「それさー、ちょっと前のめりになっただけで見える。英二の可愛いち……」
「不二。本当に、頼むから大人しく寝て!」

 一体いつからそんなことを考えていたのやら。ただのエロオヤジのようになってしまっている不二からピアスを回収すると、英二は布団を掛けた。
 英二の甲斐甲斐しい様子を見ていたのかいなかったのか……やはり眠るように目を閉じたままの不二は、熱に浮かされたような、夢見心地のご様子で英二に告げる。

「えいじー……愛してるよ」

 部屋の淡いオレンジ色の照明に照らされる、美しいその顔はとても幸せそうだ。見れば見るほど、英二は溜め息が出た。

「……今のお前じゃ誰も口説けません」

 戻ってきてまだ起きてたら俺が襲っちゃうからな!不二が下なんだからな!
 心の中で不二に言い放つと、英二はバスルームに癒しを求めに行ったのだった。






 ……無理だ。

 ぽちゃん、と髪から雫が落ちる音の中で英二でがっくり項垂れた。はぁ、と溜め息を吐けば替わりにアロマの良い香りが、癒すように体内に入ってくる。
 今晩はバスデコレーションのサービスの日なのだ。ディナーに出掛けているうちに、バスタブをフラワーデコレーションしていてくれるもの。 大理石のバスタブの縁にはオレンジや赤、白、ピンク、黄色……色とりどりの花が飾られていて、湯にもいくつか浮いている。 湯自体もバスソルトが溶かされていて、綺麗なホリゾンブルー。ロマンチックな演出、いかにも女性受けしそうだ。
 英二は今日のこのサービスをすっかり忘れていたのだが、先程不二の為にバスローブを取りに入った時に装飾されたバスタブを見て思い出した。

「俺って男としてまずい……ん?合ってんのかな……うーん」

 家の狭い風呂と違う広さに、脚を伸ばして一人ゆったりと浸かりながら英二は唸る。
 部屋に戻って、本当にまだ不二が起きていたとして。不二を襲えるのか?を、この一人の時間を持て余した末に考えてしまったのだ。 結論、無理だということになったのだが、好きな相手に欲情しないのはまずいような、男に欲情しないのは生態的には合っているような、 スパイラルに陥った。もう何に対して情けないのか、いよいよ分からなくなってくる。
 デコレーションにはハーフボトルシャンパンも付いてくる、ということでバスタブには錻の小さなバケツの氷の山にボトルが刺さったまま。 もちろん、今の英二がそれを手にする気が湧くはずもない。

「何が“最高”だよ、バーカ」

 不二がバーで煽っていたカクテル・マイタイ……タヒチ語で“最高”。思い出すほど腹立たしい。こっちはまったくもって最高じゃない。 “最高”な酔っ払いが出来上がっただけだ。
 身体を沈めて、ぬるま湯に首まで浸かりながら英二は呆れるしかなかった。

 あいつ、どれだけ欲求不満なんだよ。
 酔い潰れるまで呑み過ぎたことの次に、そこに呆れる。よくもまあ、顔に似合わないことをあんなにポンポンと言うものだ。
 確かに、今までだって不二はしたい時には「したい」と言ったし、最中なんてそんな事言って恥ずかしくないのかと思う事を言ってくることもある。 それに、同棲を始めてからバイトで忙しくて疲れる為に不二の誘いを断ることが多くなって、それが原因でパチンコ屋のバイトを辞めろという言い争いになるのだから、 それなりに不二が欲求不満なことだって判っていたのだけれど。

「あんな迫られ方で誰がその気になるんだよ……」

 折角のバカンス、高級リゾート地での貴重な夜。特賞でタヒチを当てて馬鹿みたいに喜んでいたくせに、酔い潰れに来たのかお前は!とも言いたくなる。 もちろん、英二だって酔っ払いの世話をしに来たわけではないのだ。リゾートではリゾートらしく……という英二の目標は何とも抽象的で判り辛いが、 とにかく楽しい思い出だけでいっぱいにしたかったのに。
 それが、まさか。
 英二の酔いは、すっかり醒めてしまった。
 ―――それでも、不二自体には冷めていないのだから、仕方がない。

「あーもう……どうしよ!」

 ざばっと一度頭の天辺まで湯に沈んで、勢いよく上半身を起す。また赤茶色の髪の先からぽたぽたと雫が落ちたり、白磁のような肌を伝ったりと、水面にたくさんの波紋ができると浮いているハイビスカスが揺れた。 それを見ていると頭の上から、引っ掛かっていたのだろう白いラティアの花がぽとっと転がり落ちてきて、水面に浮いた。
 何だか可笑しくて、英二は思わず笑ってしまった。

 冷めていないが故の証に伸ばそうとしていた手を、止めた。

 しん、と静まりかえる。耳をすませば微かに波の音。バスルームからは木製のシェードで海も星空も隙間からしか見えないけれど、 とても綺麗な夜なんだということを改めて感じる。
 家のバスルームも、実家のバスルームだって窓なんかない。もちろん絶景なんて見えるわけもない。 聞こえてくる音と言えば、実家なら家族の声で、今の家ならテレビの音か音楽か。絶対波の音なんて有り得ない。
 やっぱり、ただならない、異世界みたいなところに来たのだ。

(やっぱ旅行っていいなぁ。ハイヴィジョンはまた今度にしよ)

 本当お金なさ過ぎるけど、ちょっと貯めてまたどっか行こ!
 決心した英二は、風呂の水を洗濯に使うホースを買う決心をしたとかしないとか。そして、買い物という繋がりからハッと思い出す。  

(姉ちゃんたちにお土産買わなきゃ!由美姉には空港まで車で送ってもらったお礼もあるしー……)

 いや、今はそれより不二がこれだけ酔い潰れているのもある意味異世界、明日どうしよう……と考えるより、バスルームを出た後が気になる。
 シャンパンボトルに並んで置かれた、ラティアの花を模したフローキャンドルに灯を点けてそっと湯に浮かべた。
 英二の溜め息に、ほんの少しだけ灯が揺らめいていた。




 数分後。

「……よかったぁ……」

 広い広いベッドで、すっかり熟睡しきっている不二の寝顔を見て、英二はほっとしたのだった。




*next morning.*